第11号 2005.5.10発行 by 矢吹 晋
    「反対日本入常」の意味するもの
<目次>へ戻る
  中国で断絶していた日中関係を象徴するような反日デモが爆発し、内外を震撼させた。小泉首相は胡錦濤総書記や温家宝首相といくどか会談しているので、「日中関係の断絶」と言う表現について読者は奇異な感じをもたれるかもしれない。これは報道のトリックに騙されているためである。

 1時間程度のいわゆる「第三国における首脳会談」と、「首脳の相互訪問」とはまるで異なる政治行動・外交行動なのだが、両者が故意に混同されて、問題の所在を隠されてきた面がある。国際会議の場における1時間程度の会談では、あえていえば、挨拶程度の話しかできないのだ。仮に60分会談しても、通訳時間が半分として、30分しか時間がない。その30分を相手側と分かち会うのであるから、15分にすぎない。15分程度で一体どんな話ができるのか、容易に察せられるであろう。しかもそれぞれが国家を代表する立場にあり、私人ではない人々の対話である。その準備のために、事務方が連絡を重ねることは当然だが、そのテマとヒマは、首脳訪問のそれには遠く及ばない。

 他方、首脳の相手国訪問となると、少なくとも1カ月程度の準備を要するであろう。この間の準備のために、どれほど多くの時間が両国の担当者間で用いられるのか。国内の調整と相手側との調整のために、膨大な時間が用いられ、その集約点として首脳会談が行われる。これはほとんどそれまでの根回しと議論の積み上げの総括になる。それゆえ、文字通り1時間程度の会談による情報交換と相互訪問による情報交換とを比較すると、情報量においては、数十倍から数百倍の対比になるものと思われる。

 これはある国の首脳が相手国を訪問する場合の話であり、同じことが返礼訪問においても行われる。こうして当該2カ国を結ぶ対話時間の総計は膨大なものとなるはずだ。このようなコミュニケーションがまるまる4年間断絶しているのが、今日の日中関係の真相である。しかし、以下のように、小泉首相と胡錦濤国家主席、あるいは小泉首相と温家宝首相とは年に1〜2回ずつ、弔問外交ならぬ、会議外交として、会うには会っている。そこで実質は断絶状況であるにもかかわらず、話合いは続いているかのような錯覚を与えられてきた。外務省におけるチャイナ・スクール・バッシングにより、正常な外交チャネルはほとんど途絶したなかで、官邸中心の小泉番記者たちによって、小泉側の動向は細かく報道されてきた。その結果、日本外交史に残るような大失態、大汚点も、相手側にのみ非があるかのような虚像で覆い隠されている。これはほとんど現代の童話である。


 首脳訪問の断絶

 小泉内閣が誕生して以来、首脳訪問は完全に断絶している。その経緯を確認しておく。

 第一年。2001年4月24日総裁選で小泉が勝利し、4月26日小泉内閣が発足した。8月13日、「公約日通りの8・15参拝」はさすがに抵抗が強く、直前になって8月13日に繰り上げて靖国を参拝した(参拝@)。これに対する中国側反発をなだめるために、10月8日帰り訪中を行い、抗日戦争記念館に献花した。これは10月21日のAPEC上海会議の機会に想定されていた江沢民小泉会談(江沢民@)中止を避けるための色彩が色濃く、文字通り「事務的訪問」(工作性訪問)にとどまった。

 第二年。2002年4月21日小泉首相は二度目の靖国参拝(参拝A)のあとで、神崎訪中団に親書を託した。4月29日江沢民は神崎と会見したが、江沢民は小泉親書に対して返書を書かなかった。これによって2002年秋に国交正常化30周年記念のイベントが行われる際に、小泉が招待されないことは明らかになった。9月17日小泉は北朝鮮を電撃訪問したが、これは中国訪問計画が消えた段階での窮余の一策であったと思われる。その意外性のゆえに、内閣支持率は急に回復し、小泉内閣短命化観測は消えて、長期政権への道を歩み始めた。た。北京では9月22日に国交正常化記念30周年記念集会が開かれ、橋本派を中心に100名以上の議員が参加したが、小泉はこの会議に出席する以上の外交的成果を挙げたかに見えた(しかしこれは拉致問題によって、打ち消され、北朝鮮との国交正常化にはつながらなかった)。その後10月28日メキシコAPECの機会を利用して、2回目の江沢民小泉会談(江沢民A)が行われたが、その席で、江沢民は総計45分の会談中に靖国問題に3回言及した。これは巷間伝えられていた事実だが、最近出たクーン著『江沢民伝』もこれを裏付けている。通訳時間を除くと20数分であり、それを二つに分けて10数分。わずかそれだけの時間しかないなかで、江沢民が靖国に3回言及したとは、江沢民がそれ以外の話題にほとんど言及しなかったことを意味している。江沢民は靖国問題を持ち出して、小泉を難詰した。小泉はさらなる靖国参拝によって、これに反撃した。これはほとんど児戯にひとしい応酬ではないか。

 2002年11月の第一六回党大会で胡錦濤が総書記に選ばれ、江沢民は部分的に引退し始めた。その前後から、中国では「対日新思考論」を初めとする柔軟な対日外交論が散見されるようになり、2003年前半には目立つようになったが、後半にはその芽が摘まれた。日本政府がこのシグナルに対して、何も反応しなかったためといわれる。日本で反応したのは右寄りの雑誌のみであった。彼らは日中関係の悪化の原因は中国側にありとする論調の補強策に、この論点を用いた。

 第三年。2003年1月14日、小泉は三度目の靖国参拝(参拝B)のあとで、サンクトペテルブルグで5月に胡錦濤小泉会談(胡錦濤@)が行われた。その延長上で8月福田官房長官訪中が行われ、9月呉邦国全人代委員長の訪日が続いた。しかし、10月7日アセアン+日中韓会議を利用して行われた温家宝小泉会談(温家宝@)すなわちバリ会談でぶちこわしとなった。会談後に小泉が「靖国参拝を温家宝も了解してくれた」といった趣旨の「イエスとノー」を取り違えたような発言を同行記者団に語ったためだ。首相就任半年後の温家宝にとっては政治生命を失いかねない事態であったが、政治部に所属し、内政には詳しいが日中関係については素人たる小泉番の随行記者たちは、ひたすら小泉放言をそのまま垂れ流し続けた。10月20日胡錦濤Aは小泉との会談を予定通り行ったが、当然ながら何も進展はなかった。12月9日 ブッシュ大統領との会談を終えて、 ハーバード大学を訪問した温家宝 は「和平崛起」の4文字のキーワードを用いて、アメリカ国民に語りかけたが、帰国してまもなく、保守強硬派の圧力に屈して、以後「和平崛起」のキーワードが用いることができなくなった。これは胡錦濤・温家宝の柔軟外交が国内の保守強硬派の圧力に屈したことを意味する。対日新思考は日本側の無理解のため、そして和平崛起は、台湾当局の挑発のゆえに、軟弱外交の象徴と化してしまった。

 第四年。2004年元旦に小泉は四度目の靖国参拝(参拝C)を行った。中国はもはや小泉政権との関係改善を諦めたように見えた。11月22日チリで胡錦濤小泉会談(胡錦濤B)が行われた。小泉が「靖国について言及しない」ことを条件に会談は行われたが、成果はむろん期待すべくもなかった。直後の11月30日、アセアン+日中韓会議を利用したラオスで温家宝小泉会談(温家宝A)が行われたが、温家宝が厳しい基調で「日中関係は雪上加霜」と語ったことばが「ODA停止で日中関係ははじける」と訳され、ほとんどケンカ別れに近い状況が浮き彫りになった。

 第五年。2005年3-4月、日本の国連常任理事国入り反対署名運動が広まり、広東省深圳、広州から、北京、上海と「週末反日デモ」が全国的に爆発した。中国当局は4月15日政治局会議を開き、同19日には李肇星外交部長による「情勢報告会」を開き、天津、上海、広州などで呉建民、楊振亜、徐敦信などが説得講演会を行った。4月23日ジャカルタで胡錦濤小泉会談(胡錦濤C)が行われた。


 外交の精神を忘れた小泉外交

 「外交とは、相手の精神の理解を通して、自分の目的を達成することDiplomacy consists in gaining one's point through an understanding of the view of the other party.」にほかならないと朝河貫一(1873〜1948)が説いたのは、敗戦直後、逝去の直前のことであった。小泉の対アジア外交や江沢民の対日外交は、朝河の説いた精神とはまるで正反対である。

 2005年4月17日に行われた日中両国の外相会談は、小泉外交を象徴する構図であった。お互いに自分に都合のよい主張のみを一方的に述べて、相手の言い分を無視し合った。ここでは外交というよりは、そもそも対話が成立していない。外電が「握手をできなかった日中両外相」の一語で、両者の関係を説明したのは、日中断絶を象徴するヒトコマであった。


 常任理事国入りは絶望的

 今回の一連の騒動で多分日本の常任理事国入りは絶望的となった。第二次大戦におけるアジアの被害国との関係さえ解決できない国が国際社会で重要な役割を果たすことができるのか、といった冷たい道理が国際社会に突きつけられている。

 国連に対する多大な分担金支出という事実の強調や、多数決による強行採決といった思惑(日本国内の国会運営感覚を国連に持ち込んだものか)は、見事に外れて日本外交の大失態、大汚点として歴史に残るのではないか。そもそも向こう三軒両隣とのトラブルさえ解決できない世間知らずが町内会の幹部に立候補しても、相手にされまい。常任理事国のポストは、もともと第二次大戦の「戦勝国ポスト」であり、そのような利権ポストはむしろ廃止に向けて努力するのが本筋であり、大方の理解を得られるはずだ。

 百歩譲ってそこまでは踏み切れないと仮定しよう。もしその戦勝国ポストがどうしも欲しいのならば、近隣諸国の同意を得ること、すなわち足元を固めてから多数派工作に取り組むのがスジである。その努力を放置したまま、表舞台ニューヨークでのパフォーマンスにばかり狂奔するのは、本末転倒であり、もともと大戦略を間違えたものと評するほかない。外務省を覆う米国追随派の迷妄も病硬膏に入ったものと評するほかはない。


 いまや合併症化した日中摩擦病

 近年中国が求めてきたのは、日中戦争という過去への「謝罪の言葉」ではない。これまでに謝罪はいくども行われてきた。しかし、謝罪したはずの日本政府当局者が過去を反省したとは思えないような行動を繰り返しているのは、どういうことか。過去を反省していないのではないか。反省とは、イツワリであり、単に口先だけのことではないのか。日本の政治家には、反省や謝罪を行動に移してほしい。態度で示してほしい。これが中国や韓国側の要求である。すなわち彼らの論理によれば、日中戦争を反省するとは、「靖国へ行かないこと」であり、反省を実行するとは、「靖国へ行かないこと」なのだ。

 現状はまさに小泉一人が靖国参拝を繰り返すことによって日中関係(日韓関係)を袋小路に追い込む構図である。ことは小泉の個人的な信念なるものに依拠している形なので、ネコに鈴をつけるネズミたちの小田原評定にもにて、有効な解決策はありえない。このような構図がどのようにして形成されたのかを点検することによって糸のもつれを解きほぐすほかない。すなわち村山談話の説明というコトバにおいては、問題は解決できない。

 先例を探すならば、むしろ中曽根書簡(1986年8月15日付)であろう。小泉の電撃北京訪問を演出して、中曽根書簡と同じ趣旨を語りかける以外には、事態を根本的に鎮静化させる道はないのではないか。

 顧みると、政府自民党が靖国神社の国営化を内容とする「靖国神社法案」を国会に提出したのは69年であり、以後毎年提出したが、4回にわたる審議未了を経て74年に廃案となった。これを機に自民党と推進勢力は方向を転換し、「首相・閣僚らの公式参拝」による同神社の公的復権を当面の目標に設定した。78年にいわゆるA級戦犯14名を含む戦死者230万名余りを靖国神社に合祀したのは、既成事実作りの一環とみてよい。中曾根首相が終戦記念日に靖国を参拝し、マスコミの話題となったのは85年のことであった。「これは戦犯を神と崇める行為である」、これでは日本軍国主義の責任者と日本人民を区別することによって初めて可能となった田中周恩来会談の前提が崩れると受け止めた中国側から強硬な抗議があり、中曽根首相は翌年から公式参拝を断念した。

 中曽根書簡に曰く、「私は昨年の終戦記念日に、首相として初めて靖国神社の公式参拝を致しました」「その目的は戦争や軍国主義の肯定とは全く正反対のものであり、わが国の国民感情を尊重し、国のため犠牲となった一般戦没者の追悼と国際平和を祈願するためでありました」「しかしながら、戦後40年たったとはいえ不幸な歴史の傷痕はいまなおとりわけアジア近隣諸国民の心中深く残されており、侵略戦争の責任を持つ特定の指導者が祀られている靖国神社に公式参拝することにより、貴国をはじめとするアジア近隣諸国の国民感情を結果的に傷つけることは、避けなければならないと考え、今年は靖国神社の公式参拝を行わないという高度の政治決断を致しました」(中曽根書簡)。

 この年の8月15日、昭和天皇は「このとしの この日にもまた 靖国の みやしろのこと うれひはふかし」と心中を詠まれた。ちなみに戦後の昭和天皇の靖国参拝は、75年11月21日(終戦30年記念)まで8回行われたが、「A級戦犯合祀問題」発生(78年)以後は参拝していない。1996年夏橋本首相は8月15日を避けて、自らの誕生日に参拝したが、翌年は参拝を見送った。

 さて4月28日付『読売新聞』によると、中曽根元首相は同日朝、中国大使館に王大使の発言は事実無根だと電話で抗議した由だ。王大使は27日の講演で、1985年に当時の中曽根首相の靖国神社参拝が政治問題化した後、「首相、外相、官房長官の(靖国神社)参拝は行わないとの紳士協定が日中間にできていた」と述べた。ここで問題の核心はおそらく中曽根康弘首相が胡耀邦に宛てた書簡(一九八六年八月一五日)であり、そこでの中曽根誓約である。にもかかわらず、「密約の有無」の報道において、この核心についての言及がないのは、不可解千万である。政治部の記者たちはたぶん中曽根書簡を読んだことがない。いや、小泉自身でさえこの書簡を読んでいない可能性がある。


 「反対入常」と台湾問題が一体化し、中国の危機意識を高揚させた

 2005年3月12日、全人代を終えた温家宝は記者会見で対日三原則[(1)歴史を鑑として未来に向かう。(2)一つの中国を堅持する。(3)日中協力を強化し、共に発展しよう]を提起した。ここで(2)は台湾問題であり、日本の対応を牽制したものだが、なぜここで台湾問題が言及されているのか、日本ではほとんど理解されていない。実は胡錦濤の対日柔軟路線に対して、江沢民を頭とする旧勢力から弱腰批判が続いていた。その理由は、(1)日本政府が新防衛大綱で中国脅威論を書いたこと、(2)2004年末に李登輝訪日を許可したこと、(3)日米2+2(安全保障協議委員会)で台湾の安全に言及したこと、である。これら3者を結びつけて、中国の強硬派は「日本政府は(国交正常化以来の)対中国政策を変えた」と結論し、それを胡錦濤側が論駁できなくなったように見受けられる。

 日本側は当然これら3者についてそれなりの説明は行ってきたが、この日本側説明が中国側によって理解された形跡はない。

 こうして、今回の反日デモの因果関係の構図が浮かび上がる。

 @靖国問題、A台湾問題をめぐって、日本政府への不信が増大するなかで、B教科書問題をめぐる韓国の反発が中国に報道され、C9月の国連議事日程に上った常任理事国問題が急浮上した。こうして日本の常任理事国入り反対を求めるインターネット署名は3〜4月の短期間に3000万人を超えた。これは、全国どこでもデモをよびかける体制ができたことを意味した。

 私自身はたまたま3月初めに1週間北京を訪れ、また3月末から4月1日までには香港を訪れる機会があり、深圳や広州で動き始めた日貨ボイコットと労働争議、反日デモの成行きを当初から危惧していた。


 台湾問題(新防衛大綱と日米2+2)

 中国の国営新華社通信は2004年12月11日、章啓月・同国外務省副報道局長の言明として、日本政府の策定した新たな防衛大綱に関する論評を出し、中国を名指しで脅威と明記したことについて「われわれは、日本の防衛戦略の転換とその及ぼす影響について深く憂慮している。日中両国は平和友好条約を締結し、経済貿易や人的往来が緊密化しており、深く考えさせられる事態だ」と断言、新防衛大綱に強い疑義を呈した。新防衛大綱が、日本を取り巻安全保障上の環境に関し、国際テロ組織などとともに、中国について「核・ミサイル戦力や海・空軍力の近代化を推進するとともに、海洋における活動範囲の拡大などを図っている」と指摘したこと。11月の中国原子力潜水艦の領海侵犯事件を踏まえ、「領海内で潜没航行する外国潜水艦等に適切に対処する」ことを盛り込んだことは、日本側としての当然の措置かもしれないが、日中の断絶のなかでは、おのずから別の文脈で受け取られることになる。さらに2月19日には、米国国務省において日米安全保障協議委員会が開催された。米側参加者は、ライス国務長官、ラムズフェルド国防長官他であり、日本側参加者は町村外務大臣、大野防衛庁長官、加藤駐米大使他である。全体会合終了後に行われた共同記者会見において、「共同発表」が公表された。


 日本からの明確なメッセージが必要

 江沢民体制から胡錦濤体制への移行期に乗じて、日中関係の懸案に火がつけられたことが重大である。胡錦濤政権が江沢民時代の大掃除に成功すれば、体制が安定し、日中関係改善に取り組めるが、デモへの対応を間違えると、「天安門事件の二の舞」に陥る危険性がある。たとえば上海『解放日報』4月25日評論員論文は1989年4月26日動乱社説を想起させる。

 また改革開放期以後において、特定の外国に対する抗議行動としては、1999年5月の北京アメリカ大使館投石事件を想起させる。大使館投石事件は官製デモそのものであり、当局の準備では始まり、収束された。

 今回の反日デモは、在米の抗日戦争史実維護会の呼びかけに始まり、かねて活発な反日活動を続けてきた保釣連合会や愛国者網、日本製品ボイコット聯盟などの暗躍で全国に飛び火した。4月9日の北京デモのあと、15日に緊急政治局常務委員会議を開き、秩序維持の方針を決めたが、翌16日の上海デモは荒れた。これは上海市書記陳良が北京中央の方針に面従腹背した結果と見るほかあるまい。つまり上海グループ、そして張徳江の率いる広東省が胡錦濤体制の確立を妨害し、権力闘争を挑んでいる構図に見える。

 4月19日に開かれた「六部委情勢報告会」では李肇星外交部長が幹部3500人を集めて、状況を報告した。集まったのは1中央宣伝部、2中央直属機関工作委員会、3中央国家機関工作委員会、4教育部、5解放軍総政治部、6北京市委員会の幹部たちだ。

 結論を急ごう。反日デモ以後、日本のマスコミでは、問題の核心は中国の国内にあり、反日は口実にすぎない、とする受け取り方が強い。私はそのような理解がまったく間違いだとは思わない。10年前に江沢民が愛国主義運動を始めたときは、確かにそうであった。しかし、いまの状況は明らかに質が変化しつつある。

 かつては江沢民が小泉の靖国参拝に問題を集約化、象徴化させてきたが、いまや江沢民が表舞台から消えた後、小泉が靖国参拝を繰り返すことによって、日中関係のトゲを大きく太くしてきた。胡錦濤、温家宝は小泉内閣の退場を待つ静観の構えであったが、国連常任理事国入り問題を契機として、歴史問題は未来問題と結合し、胡錦濤、温家宝の「弱腰」を直撃した。

 「靖国参拝の小泉日本が常任理事国入りすること」は、「反省なき日本が、拒否権をもつ大国として中国に敵対すること」だ。このような日本イメージが一挙に広まった。常任理事国入り問題は数ヶ月で決着がつくであろうが、それまで反日デモの大義名分は消えない。事態を鎮静化させることは急務だが、火種を残したままの消火活動では、その効果が限られたものとなろう。


               
<目次>へ戻る