注 |
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1 |
石井明ほか編『記録と考証、日中国交正常化、日中平和友好条約締結交渉』岩波書店、2003年、241-2ページ。橋本の回想は、NHK2002年9月28日放映の発言と同じである。橋本の発言が同趣旨ならば、服部のインタビューによって新たに明らかになったものはなにか。追加された未公開情報はなにか。これがほとんど見当たらない。逆に、インタビュー対象者・橋本に感情移入した匂いが濃厚である。 |
2 |
服部龍二、『日中国交正常化』151-2ページ。 |
3 |
田畑、245ページ。 |
4 |
服部、153ページ、240ページ注。 |
5 |
田中一行は9月30日午後一時前に羽田着の日航特別機で帰国した。空港を出た後皇居で帰国の記帳を済ませ、自民党本部で椎名副総裁、橋本幹事長ら党執行部と懇談、引き続き午後2時20分から官邸で臨時閣議を開き、国交正常化考証の経過と成果を報告し、午後3時すぎから首相官邸でテレビ中継の記者会見に臨んだ。さらに4時すぎから自民党両院議員総会に出席し、共同声明について党の最終的了承を求め、台湾派の野次と怒号のなかで自民党は田中報告を了承した。この過程で田中は、迷惑問題について幾度も語っている。だが、服部はこれらを一切無視して、1984年11月号の『宝石』に寄せた「いま始めて明かす日中国交回復の秘話」から引用する。この「秘話」に特別の内容はなく、もし田中の真意を探るのならば、私が試みたように、帰国直後の証言が最もふさわしいはずだ。 |
6 |
その中国語訳は「田中角栄与毛沢東談判的真相」のタイトルで『百年潮』2004年2月号に発表され、次いで『新華文摘』2004年10号に転載された。この講義に大幅加筆したものが「田中角栄の『迷惑』、毛沢東の『迷惑』、昭和天皇の『迷惑』」のタイトルで『諸君!』2004年5月号に掲載され、のち、『激辛書評で知る中国の政治経済の虚実』日経BP社、2007年に収められた。 |
7 |
原注、英語通訳唐聞生を指す。 |
8 |
拙著、109ページ。 |
9 |
NHK取材組編『周恩来の決断』の中国語訳は、この件を次のように訳している。关于”麻烦”一语,当初有一种说法是外务省的翻译有错误。的确,日文的”添了很大的麻烦,我对此再次表示深切的反省”与中文的”很遗憾的是。。。。给中国国民添了麻烦”,在语感上有相当差距。但是,参加田中首相致词撰稿的当时外务省中国课长桥本恕却说,绝不是翻译的问题,考虑到日本国内舆论,那已经是到了极限的提法了。桥本恕说;”我考虑了不知多少天,推敲了不知多少次,夸大一点说,是绞尽脑汁写出的文章。当然也给大平外务大臣田中首相看了几次,得到了他们的同意”。第105页。 |
10 |
『周恩来の決断』日本語版、152ページ。 |
11 |
この姫鵬飛回顧録は、末尾に「李海文整理」と注記されている。李海文によると、これは姫鵬飛の談話をまとめた形になっているが、実は膨大な関連資料から、姫鵬飛外相に直接関わる部分を李海文がまとめて姫鵬飛の校閲を得て発表したものである。日本外務省による記録改竄を意識しつつ、中国側資料を整理した点に着目すべきである。 |
12 |
その経緯は、「周恩来『19歳の東京日記』から始まる歴史のif」『東京人』2011年11月号に記した。 |
13 |
たとえば田中訪中直後の1972年10月国会における大平演説(第70回国会、昭和47年10月28日に大平は、次のように信条を吐露している。「私は、何をおきましても、日中相互の間に不動の信頼がつちかわれなければならないと考えます。われわれはお互いのことばに信をおき、かつ、お互いのことばを行為によって裏書きすることが必要であると思います。(拍手)さらに、両国が、アジア地域の平和と安定、秩序と繁栄に貢献することが肝要であると思います。そのためにわれわれは何を行なうべきか、何を行なってはならないかについて、正しい判断を持ち、慎重に行動すべきであると考えております。日中両国は、このような不動の信頼とけじめのある国交を通じてのみ、両国間に末長き友好関係を築き、発展させることができるものと考えます。政府としてはこのためにせっかく努力をいたす所存であります。(拍手)」下線は矢吹による。国交正常化交渉に臨んだ大平の信念はここに明らかだ。 |
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その直接的根拠は旧ソ連解体と東欧圏の崩壊という激震に対して、中国指導部が深刻な危機意識を抱き、国内体制の引き締めを反日ナショナリズムによって乗り切ろうとしたことは明らかだが、もし田中や大平のような精神で日本が導かれていたならば、反日運動はたとえ試みたとしても困難であったはずだ。 |
15 |
服部、140ページ。 |
16 |
服部、141ページ。 |
17 |
栗山尚一『外交証言録、沖縄変換・日中国交正常化・日米密約』岩波書店、2010年、130ページ。 |
18 |
服部、174~175ページ。この『楚辞集注』に服部は「そじしゅうちゅう」とルビを振る。これは「そじしっちゅう」と読むのが日本漢学の伝統だ。さらに「中国古典の注釈集」と形容句を付しているが、これも一知半解である。なお、ジャーナリスト横堀克己は当時通訳を勤めた王效賢のインタビューをもとに「主席はこの本が大好きだったからに違いありません」と、王效賢説を紹介している(岩波、264ページ)。だが、毛沢東の愛読書は、この本に限らない。なぜこの本を選んだのかは、当時の通訳にも不可解であったことが分かる。 |
19 |
服部、241ページ注17。 |
20 |
服部、同上。 |
21 |
久能靖「角栄・周恩来会談、最後の証言」『文藝春秋』2007年12月号、365ページ。久能は日本テレビのアナウンサーとして田中訪中の同行取材陣の一人であり、そこで面識を得た周斌を「日中国交正常化35周年の今夏」(すなわち2007年夏)にインタビューし、この文を発表した。 |
22 |
「日中メディア批評」第8号、筆者はジャーナリストXZ氏。サイトは、http://www.21ccs.jp/xz/xz_08.html |
23 |
服部、152ページで、「田中[角栄]が真意を説明すると、周[恩来]は納得した」とする箇所に倪志敏「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳」『龍谷大学経済学論集』しか挙げていないが、その博士論文を指導したのは矢吹であり、そこでは矢吹の指示した資料が用いられている。服部のスタンスが日本官僚から見た日中国交正常化の色彩が強いのは、そもそも中国側文献を読まない、あるいは日本語訳のみに依拠したためかもしれない。 |
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