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     第5号 2009.7.1発行 by 岡田 充
    「斎藤発言」のなぞに迫る
台湾主権問題とは何か


 台湾人は羅生門が好きだ。羅生門といっても芥川竜之介原作の「羅生門」ではない。黒沢明が1950年、芥川の「藪の中」のストーリーを、「羅生門」の題名で映画化したものである。台湾では新聞だけでなく日常会話でも「それは羅生門だ」と言う。少し気の利いた言い回しだ。最初は何を意味するのか理解できなかったが、「藪の中」と聞けば合点がいく。「何が真相なのかよく分からない」ことを指す代名詞であった。複合的な台湾文化の中に織り込まれた日本文化のひとつであろう。
 「未定論」
 新しい「羅生門」が、交流協会の齋藤正樹・台北事務所長(大使に相当)の発言をめぐって起きている。発言をひとことで表せば「台湾の帰属未定論」。台湾の主権がどこに属すのかをめぐる「未定論」自体は目新しいものではない。台湾独立派は1960年代後半から主張してきたし、李登輝、陳水扁の総統経験者も、総統任期の終了間際になると、それをにおわす発言をしてきた。ただ、日本政府の政策と異なる見解が、事実上の日本大使の口から飛び出したとなれば穏やかではない。発言は意図的だったのか、それとも思い込みか、あるいはうっかり発言だったのか。その意図が「羅生門」となった。代表は直後に発言を撤回したものの、台北、北京、東京の外交関係者に波紋は広がり、国民党や馬政権の一部ではいまも「斎藤更迭論」がくすぶる。
 馬英九政権が誕生してから5月20日で一年。政権側は「独立」でも「統一」でもない「現状維持」路線を追求し、「三通」をはじめ中国との経済交流を予想以上のスピードで実現してきた(表1参照)。60年前に起きた台湾問題で常に争論の核となってきたのは、中国代表権争いと台湾の主権問題であった。主権問題には、台湾を50年間統治してきた日本政府の立場や、東アジアの安全保障の要である米国の中国政策が複雑に絡み合い、台湾問題を国際政治と安全保障上のホットスポットにしてきた。
 齋藤発言を検証し、その発言の背景をなす過去の条約や国際情勢を点検・整理することは、現在と将来の台湾問題にとって意味があろう。古い条約の条文や国際法の解釈、当時の国際情勢について味気ない論述が続くが、少し我慢して付き合ってほしい。台湾問題の本質に関わる課題だからだ。

陳・馬政権下の両岸関係比較(表1)
両岸協議と
交流
陳水扁政権 馬英九政権
20054月 連戦が国民党主席の肩書で訪中、胡錦濤と会談。5項目共通認識、4点の主張で合意 20086月 週末直行チャーター便、大陸中国人の台湾訪問を協議
200811月 江・陳会談で①食品安全メカニズムの推進②航空③海運直航開放④郵便協力の4項目で合意
20055月 宋楚瑜が親民党主席の肩書きで訪中、胡錦濤と会談6項目合意 20094月 ①定期便の運行開始②犯罪取締協力③金融協力3協議④中国資本の台湾投資の開放で共同声明
三通 20011月 金門・アモイ・馬祖間で「小三通」開始 20086月 「小三通」拡大。台湾本島居住者も金門、馬祖経由での中国訪問が可能に
20031月 春節チャーター便就航。54年来初 20087月 週末チャーター便就航
20061月 春節チャーター便拡大 200812月 「三通」実現。航空貨物チャーター便、海運直航実現。チャーター便は週末から平日も実施
中国観光客と
資本
20044月 「大陸地区人民台湾観光訪問に関する便法を修正し「団体行動」規定を緩め、日程の変更も容認 20087月 中国観光客の台湾訪問を開放
20046月 中国資本の台湾投資について「華僑投資の範囲を越えない」など「三不原則」
20095月 中国資本の台湾投資を開放。初期段階は合弁・合資が中心

 まず、発言の経緯を振り返ろう。齋藤は5月1日、嘉義の中正大学で開かれた国際関係学会年次総会での講演で「サンフランシスコ条約と日華条約に基づいて、日本は台湾の主権を放棄したのみで台湾の地位は未定。これは日本政府の立場である」と述べた。これに対しその場にいた楊永明・国家安全会議諮問委員が「事実に合わず受け入れられない」と抗議。外交部の夏立言・政務次長(政務次官)も同日午後、代表を呼んで正式に抗議した。齋藤は夏に対し「私個人の見解で日本政府の立場を代表していない。撤回する」と前言を翻した。
 発言には伏線があった。馬英九が4月28日、日本と台湾が1952年「日華平和条約」に署名した場所である「台北賓館」(旧総督公邸)の改装式典で「(条約署名で)台湾の主権が中華民国に返還されたことが再確認された」と述べたことである。式典に出席していた斎藤は「総統発言について『見解が異なる』と指摘した」 という。この流れから判断すれば、斎藤発言は、馬英九の認識への反論だったと想像がつく。
カギはカイロ宣言
 日台双方の発言を並べてみると、争点は何かがおぼろげながら浮かび上がる。まず論点を整理しよう。第1は、1951年のサンフランシスコ条約と52年日華条約によって、日本は台湾の主権を中華民国に戻したのか、それとも主権を放棄しただけなのか。そして第2に、齋藤が陳謝した未定論と日本政府の立場はどのように異なるのか―である。
 2つの論点に沿って議論を進める。
 第1に米国、英国など連合国の日本との平和条約であるサンフランシスコ条約で、台湾の地位はどう書かれているのだろうか。日本の植民地だった朝鮮・台湾についての処理は、第2条に記載され、2条(a)は「日本は朝鮮の独立を承認。朝鮮に対する全ての権利、権原(原文のまま)及び請求権を放棄」。(b)では「台湾・澎湖諸島の権利、権原及び請求権の放棄」と明示された。ここで注意しなければならないのは、朝鮮に対しては「独立を承認」したのに対し、台湾については「主権放棄」にとどめている点である。
 このサンフランシスコ平和条約の基礎になるのが、日本が無条件降伏で受諾した1945年のポツダム宣言。ポツダム宣言には、台湾主権の処理について明示的な表現は一切ない。ただ8条に「カイロ宣言ノ条項ハ履行サレルベク」と明示され、連合国(米、英、中)が、対日方針を話し合った43年のカイロ会談とそれに基づく「カイロ宣言」の条項が履行すべきとされている。ではカイロ宣言は、台湾についてどのように書いているのか。
 「台湾及澎湖島ノ如キ日本国カ清国人ヨリ盗取シタル一切ノ地域ヲ中華民国ニ返還スルコトニ在リ」 と書かれた。1895年の下関条約で、日本の支配下に置いた台湾・澎湖諸島の主権を、中華民国に返すよう明記しているのであり、台湾主権のカギは、「カイロ宣言」にあると言える。
対中正常化にらみ回避
 台湾の中華民国政府も中華人民共和国政府も従来から、カイロ宣言によって日本は台湾の主権を中国に返したという立場をとってきた。台湾で政権当局から異議が唱えられたのは陳水扁政権末期。陳は08年3月13日、英紙「フィナンシャル・タイムズ」との会見で「カイロ宣言は時間と日付が記されていない。蒋介石、チャーチル、ルーズベルトの3首脳のいずれも署名はなく、事後による追認も授権もない。これはコミュニケではなく、プレスリリース、声明に過ぎない」と述べた。さらに「中国は信用できない商品が多い。『カイロ宣言』もニセモノだ」と付け加えた。その陳も2期8年の任期中は、「中華民国憲法」の改正は主張したものの、現行憲法に基づき総統に選出された自己の立場を否定したわけではない。陳発言の1週間後に、総統選挙が行われる時期から考えると、任期切れ直前の「駆け込み」発言であろう。カイロ宣言の有効性に異議を唱えるのは自由だが、ポツダム宣言と日本の降伏受諾が、カイロ宣言に基づくことは否定できまい。
 次いで第2の論点。台湾主権に関する日本政府の公式見解を整理しながら、「齋藤未定論」と日本政府の立場はどのように異なるのかを検討しよう。先にみたようにサンフランシスコ条約第2条と日華条約で、日本は台湾の主権を放棄したのに、なぜ帰属先を明記しなかったのか。これは法の解釈や理論ではなく、朝鮮戦争によって激しさを増す東西冷戦の国際情勢から説明すべきである。49年、中華人民共和国の成立によって、東アジアで「2つの中国」が生まれ、中国代表権と台湾問題が生まれた。サンフランシスコ条約締結の過程では、英国が北京政府を代表とすべきだと主張したのに対し、冷戦激化の情勢を受けて米国がこれに反対するなど同盟国内部で足並みが揃わず、条約には北京も台北も調印しなかった。
 ただ中国との戦争状態を終結させるには、サンフランシスコ条約締結後、日本は直ちに北京か台北のいずれかと二国間平和条約を結ばねばならない。日本は結局、冷戦激化の中で米国が後押しする中華民国と平和条約を締結した。しかしここで重要なことは、中華民国が実効支配しているのは台湾本島と澎湖、金門・馬祖だけであり、広大な中国大陸は共産党政権が実効支配している。当時、日本政府・与党内には、中国大陸ともいずれ戦後処理しなければならず、その場合主権問題で縛られぬよう帰属を回避すべきと考えたとみるのが合理的であろう。
 同時に、日華平和条約も日中共同声明も、台湾の帰属と主権について明示しなかったことが、その後の東アジア国際政治の展開の中で、日本に一定のフリーハンドとカードを持たせる効果があったことは否定できない。中国政府が、台湾問題で日本の役割に神経質になるのもこれに起因する。齋藤発言の意図もそうとられる可能性がある。
独自認定せずが政府見解
 日本政府の台湾帰属に関する公式の立場は、「表明する立場にはない」である。72年の日中正常化交渉では、台湾問題が最大の懸案となる。中国政府は「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である」ことを認めるよう要求した。これに対し日本は「日本は十分理解し、尊重する」という文言を入れることで妥協した。前年、国連に北京政府が加入し台北が脱退したことから、中国代表権の帰趨はほぼ決着したとみられていた。カイロ宣言に基づき帰属を明確にすべきという議論もあった。しかし日本政府は、要求をのめば「武力統一」を基本方針にする中国が、台湾を武力統一しかねないと懸念。「平和解決を希望する日本政府の立場をこの表現で貫いた」とみる外交筋もある。
 直近の政府見解はどうか。小泉首相が05年11月15日に出した衆院議長宛の答弁書は「台湾の領土的な位置付けに関して独自の認定を行う立場にない」としている。「未定論」を主張する側は「日本が独自の認定を行っていないから、台湾の国際的地位は未定」という論理を展開する。退任直前の99年に「2国論」を提起した李登輝は、04年ごろから「未定論」に転換、「台湾の地位は、米軍の占領下にあるイラクと同様だ」と主張し始めた。
 では「未定論」と「認定せず」はどのように違うのか。「未定論」とは「未定という認定」を含む積極解釈だ。つまり「未定という独自認定」になる。日中共同声明にある中国側の主張を「十分理解し、尊重する」という論理との整合性も保ちにくい。斎藤発言は、明らかに踏み込み過ぎであった。外務省チャイナスクール出身で、日中共同声明調印式にも立ち合い、その後日本大使館、香港総領事館で要職を歴任した斎藤がその意味を知らないはずはない。だから「発言は意図的で確信犯」という見方が説得力を持ってしまう。
 齋藤が反論しようとした馬英九の発言をみよう。馬は「日華平和条約の条文の行間からはっきり理解できるように、仮に日本が領土を中華民国に譲渡しないのであれば、双方は署名しなかっただろうし、国籍も含めて1945年10月25日の光復当時の状況の再確認だった」 と述べた。台湾を実効支配している「中華民国総統」としては当然の発言であろう。日本政府の公式見解に立てば、馬英九が台湾の主権についてどのように述べようと「独自の認定はしない」、つまり無視すべきなのである。中国政府が日中共同声明の「理解と尊重」の表現を無視し「台湾は中華人民共和国の領土の不可分の一部である」という原則を、あらゆる場で表明しても、日本側が無視しているのと同様である。陳政権の中枢にいた元当局者は「齋藤代表はなぜ、既に終了した日華平和条約の記念式典に出たのでしょうか。陳政権時代なら考えられない」と論評している。
「主権棚上げ」
 かび臭い歴史文書の解釈はこれくらいにしよう。国家主権とは、実際の国際関係とは別の、ファジーな世界にあるかが改めて分かるであろう。国際政治は内政と同じく当事者の力関係によって決定される既成事実の積み重ねである。台北や北京がカイロ宣言の有効性を争っても、日本政府がカイロ宣言に立ち戻り、主権認定を見直すことはあり得ない。
 両岸関係は、毛沢東・蔣介石時代の「2つの中国」から、江沢民・李登輝、陳水扁時代の「一中一台」を経て、「主権争い」を棚上げした胡錦濤・馬英九時代に入った。冒頭触れたように、両岸の双方が台湾問題の争点だった「主権」を棚上げすることは、簡単なことではない。野党の馬政権批判の大きな根拠も「台湾の主権をあいまいにしている」ことに行き着く。しかし国際政治・経済で存在と発言力を増す中国と争いを続ければ、台湾の生存に関わる。馬が総統に選ばれたのも、中国を挑発し、展望のない憲法改正と独立国家建設という民進党路線に有権者が飽き、両岸の経済交流から現実的利益を見いだすことに期待を寄せたことが一因だ。「ファジーな別世界」から、現実的な国際政治へ軸足を移したと言ってよい。

「92合意」(一つの中国)をめぐる中台「16字方針」(表2)
中国(08429日 胡・連会談) 台湾(08412日 海南島博鰲)
「相互信頼を確立し、争点を棚上げし、小異を捨て大同に就き、共同利益をともに創造する」(建立互信、擱置爭議、求同存異、共創雙贏 「現実を正視し、未来を開き、争点を棚上げし、相互利益を追求する」(正視現實,開創未來;擱置爭議,追求雙贏

 主権棚上げは、北京と台北の両者間のみに有効な便法であり、両者間に横たわる争点回避にほかならない。従って、国際社会や国内向けには、各自が従来の主権を主張することを妨げない。日本政府の「独自の認定はしない」とよく似た論理だ。
 馬は1年前の5月20日の就任演説で、「統一」と「一つの中国」の表現を徹底して避けた。台湾人意識が高まる台湾では、「統一」はもはや選択肢ではない。「統一派」のレッテルを張られる馬英九が「3不」を強調するのは、統一に反対する「主流民意」を尊重せざるを得ないからである。馬は「統一」に替わって「両岸問題の最終解決」という表現を使う。そして「両岸問題の最終解決のカギは主権の争いにではなく、生活方式や核心的な価値にある」とし、「中国大陸が引き続き、自由、民主と均富の大道を進み、両岸関係の長い平和発展のため相互利益を上げる歴史的条件が作られるよう希望する」とした。さらに「任期内に中共とは統一問題を討議しない」とし、中国が民主化、自由化するまで現状を維持する方向性を示した。
大人の合意
 主権争いを棚上げ出来たのは、「92合意」路線に立ったからである。92合意について、北京は「一つの中国」を双方が承認したものとみなし、一方の台湾は「一つの中国」については「各自解釈」するという合意だったとする。これまたファジーな合意だ。陳政権時代、中国は対話再開の条件として「92合意」の受け入れを迫ったが、陳は「92合意とは、合意のない合意」として拒否し続けた。野党だった国民党は「92合意」を承認しており、政権の座に就いたから「92路線」は当然であろう。
 08年就任演説で馬は、4月12日の海南島博鰲フォーラムに出席した蕭万長次期副総統が胡錦濤に述べた「現実を正視し、未来を開き、争点を棚上げし、相互利益を勝ち取る」の「16字方針」(表2参照)が、台湾側の基本方針と位置付けた。これに対し胡錦濤は08年4月29日、連戦・国民党名誉主席との会談で、「92合意」について「相互信頼を確立し、争点を棚上げし、小異を捨て大同に就き、共同利益をともに創造しよう」と述べる。双方の主張は近似している。双方が「棚上げ」する「争点」とは、「一つの中国」であり、主権の曖昧化に他ならない。「現実を正視」という台湾側の主張には、分断統治している「現実」受け入れを意味する。
 馬政権誕生、両岸のリーダーはいずれも「先易後難」の道をとり、経済協議からはじめ「主権」問題が絡む政治協議は「後回し」にする方針で一致している。馬は9月から国民党主席を兼任する。このため日本のメディアには、年1回開く「国共フォーラム」で、馬胡会談実現の可能性を指摘する向きもある。馬が総統ではなく、主席の肩書で訪中すれば、野党の厳しい批判にさらされる。では胡錦濤はどうか。党総書記の肩書で台北空港に降り立てるだろうか?



 
http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=90725&ctNode=3591&mp=202&xq_xCat=diplomacy&nowPage=3&pagesize=15、台湾外交部声明 5月1日)
「共同通信」台北電 4月28日)
 ⅲ 「日本外交年表並主要文書」下巻、外務省編(1966)
 ⅳ (台湾総統府 2008年3月14日)
 ⅴ  http://www.taiwanembassy.org/ct.asp?xItem=90739&ctNode=3591&mp=202&xq_xCat=diplomacy&nowPage=3&pagesize=15(09年4月28日 総統府)。

(了) 

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