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     第15号 2010.08.20発行 by 岡田 充
    境界のない豊かな中世が広がる
金門島から見る「東アジア」


  北東から心地よい「貿易風」が吹き抜ける。金門島は35度を超える暑さだが、木陰に入れば意外にカラッとしている。夏休みに入った7月末、「大三通」と「小三通」1を利用して台湾海峡を往復した。往きは台北―福建省アモイ(廈門)の直航旅客機。そしてからフェリーで台湾の金門島に渡り、台北に戻るコースだ。金門はこれが3度目である。最初は香港特派員時代の1988年、台湾国防省が外国記者を招いたツアー。2回目は2000年末、台北支局時代、金門・馬祖―福建省間の直接往来を認める「小三通」をルポするためだった。1回目のツアーは、まだ戒厳令下だったこともあり、政治・軍事色の濃い「お仕着せ旅行」。「小三通」は金門島民にのみ開放された一方通行だったが、地元は金門島を両岸の中継基地として、あるいは観光島として再生させようと意気込んでいた。そして今回は「三通」が全面開放(2008年末)された後、あえて「小三通」を利用したのだった。両岸ではいま週270便の直行便が就航している。だから「小三通」の役割も減少しているに違いない、そんな予断を持ってフェリーで厦門から金門島に向かった。
 金門島は60年余り前、国民党と共産党が死闘を繰り広げた激戦地だが、それだけではない。この島から中世の東アジアを眺めると、国境を越えた豊かな交流の世界が広がってみえる。時空を超え中世に思いを馳せながら報告しよう。
レトロなスローガン
 2年前に完成した厦門国際郵輪センターで、金門行き快速艇のキップを買った。外国人に「小金門」の利用が解禁されてから2年。それまで利用できたのは台湾・香港・マカオの「両岸人」に制限されていた。港のロビーは吹き抜けで、空港並みの広さ。航空会社とタイアップした旅行社のカウンターが並び、「客引き」をしている。空席があれば予約なしで「厦門―金門―台湾本島」の船と飛行機のチケットが買える。発券を待っていると、カウンターの女性が携帯電話を売り込んできた。「台湾でも使えて450人民元」という触れ込みだが、丁重に断った。同行した学生は「ちょっと心が動いた」という。抜け目ない商法。
 金門島までは快速艇で1時間強の旅だ。金門と中国側は最短距離で2キロ。直線ならそんな時間はかからないはずだ。両岸の関係は改善したが、平和協定を結んでいないため法的には「敵対関係」にある。領海の中間線部分は依然として軍事管制下にあるから、迂回航路で時間がかかる。台北-廈門の直行便も最短距離なら1時間だが、やはり南の迂回路を使い、いったん広東省スワトウまで南下したあと廈門に行くため、1時間半かかる。しかし直行便解禁前は、香港かマカオ経由で乗り継ぐ必要があり、台北―廈門は6~8時間もかかった。
 上の写真は厦門と金門島の地図。左が厦門中心部の厦門島。中央下の小島が小金門で、右が金門島(大金門)である。下の弧を描く赤線が快速艇の航路で、大きく迂回しているのが分かるだろう。
厦門を離れた船は「鼓浪嶼」を左に見ながら一路東へ進む。小高い山のような鼓浪嶼は、19世紀、列強が香港とともに租借地にしていたころの洋館が並ぶ観光スポットだ。約200人乗りの快速艇は台湾人でほぼ満席。ちょうど昼時で麺をすする音があちこちから聞こえる。船内で売られているカップラーメンを食べているのだ。キャビンは「冷気全面開放」で体の芯が冷えるほど。ラーメンがうまいはずだ。40分ほど経つと、左手に比較的大きな島が見えてきた。小金門だ。岩場の上に細長い白い看板が見えた。黒字で「三民主義統一中国」(写真下)とある。台湾本島ではまずお目にかかれない「統一」の文字。まるで20年前にフラッシュバックしたよう
な、レトロなスローガン。
 金門島の西端にある水頭港に着岸すると、スーツケースを引いた乗客が先を争うように下船し、パスポート・コントロールに急いでいる。彼らはその足で金門空港へ向かい台北、台中、高雄など台湾主要都市への飛行機に乗るのだ。入管の窓口は4つばかりと小さいが、係官の処理はてきぱきとして通関はスムーズだった。
「大三通」は影響せず?
 港には、台湾の黄色い3台のタクシーが客待ちしていた。車外に出て客待ちする運転手はみな、50歳代以上の「オバサン」ばかり。「島には仕事がないからねえ。大三通?金門にはいいことないですよ」。やはり地元は三通を歓迎していないようだ。2年前の総統選では、国民党の馬英九候補に投票したという女性運転手。軍人の島だった金門島の国民党得票率は高い。各種選挙で得票率は8割から9割に上る。金門港務処の統計によると、昨年、金門と厦門・泉州間の「小三通」を利用した客は128万人で、100万の大台を初めて突破した。2前年比31%増と、数字を見る限り、「三通」の「小三通」への影響は大きくないことを示している。
 厦門大学台湾研究院の劉国深院長にその理由を尋ねた。中国の台湾研究では最も歴史の古い研究所で、院長は北京の台湾政策の決定に影響力を持つ。劉院長は「三つ要因がある。第一に両岸の往来客数の増加。第二は両岸直行便に比べ料金が安い。そして第三は直行の航空便数が少ないためだ。小三通を使うと、金門経由で台北だけでなく台中、台南、高雄など台湾各地へ直行できる」と説明した。厦門―台北の直行航空券は2000人民元(約2万6000円)だが、金門経由なら、700元(1万円弱)も安い。大陸側の統計によると、厦門-金門間の小三通利用客は2001年から昨年5月まで387万人に上る。馬英九は「金厦生活圏」の形成を主張している。同研究院によると、厦門に投資している台湾企業は2800社で、常駐台湾人は6万人。金門島の台湾人で厦門の不動産を購入した件数は8000に上る。実際はもっと多いだろう。開発の遅れた金門島より、廈門のほうが生活しやすい。普段は廈門に住み、なにかあれば1時間で金門に戻ることも可能だ。
 20年ぶりに訪れた厦門は、面目を一新していた。中国の新興都市によくある、高層ビル群が林立する無機質な風景ではない。湖畔には遊歩道ができ、早朝から近くの住民が釣り糸をたれ、ジョギングや太極拳で汗を流している。緑地帯をはさんだ向かい側の通りには、洒落たカフェ・バーやレストランが軒を並べ、豊かなリゾート地にいるようだ。漢字さえなければ、中国大陸にいるのを忘れるほどである。
 「小三通」の利用客は減ってはいないが、直行便の便数やルートが増えディスカウント航空券が出回れば、小三通の優位性は脅かされる。事実、厦門航空は7月から台北―厦門のチケットを、7割安の4000台湾元(約1万1000円)で売り出し始めた。台湾紙の報道によると、「小三通」を利用する大陸旅客の数は徐々に減る傾向が見られるという3
地番は「福建省」
 金門島は東西約20キロで、人口は約9万5000人。うち兵員は4万人弱。行政区画は「中華民国福建省金門県」である。台湾では金門県と連江県(馬祖)だけだが、まだ福建省を名乗っている。奇妙に感じるだろうが、「中華民国は中国を代表する政府」という虚構の残りかすが、地名に残っている。
 記憶に刻まれている金門島のイメージはやはり、国共両軍の死闘と砲撃戦であろう。中華人民共和国が成立した直後の1949年10月25日、1万人を超える共産軍が島の西北端の古寧頭に大量上陸、3日間にわたる死闘の末、両軍の4000人が死亡した。当時、蒋介石の要請で、旧日本陸軍の将軍グループが軍事顧問として金門防衛の指揮をとった。舞台となった「古寧頭」は記念館になっており、台湾本島や大陸からの観光客が、戦史の説明を興味深そうに聞き入っていた。中国側はさらに1954年と58年に激しい砲撃を展開、78年まで断続的に続いた。海岸沿いには、共産軍の上陸を阻止するため埋められた地雷や防護柵が残り立ち入り禁止だ。
 島の観光開発が本格的に始動したのは、2001年に解禁された「小三通」以後である。2000年末のルポ記事はこう書いている。
 「92年には金門島の戒厳令も解除され、今や豊富な自然と文化遺産を売り物に『観光島』への脱皮に懸命だ。海軍や警察などを統合して昨年発足した沿岸警備隊(約650人)の主要任務は、日常化する密輸取り締まりに変わった。かつて中国側から飛んできた砲弾は、鋳造しなおして料理用包丁に生まれ変わり、高粱酒と並ぶ『金門名産』だ」。
 当時建設中だった「老街」を再現した通りは、レストランや包丁店などの商店が並ぶ「模範街」という名前の通りに生まれ変わり、本島からの家族連れ観光客で賑わっていた。ただ砲撃が止んでから30年経ち、料理包丁の原料はどんどんなくなっている。
シーサーの先祖
 観光資源は街並みだけではない。島のシンボル的な存在が「風獅爺」である。今から約4、500年前、中国王朝で言えば明から清時代、金門は東アジア一帯を支配下に収めた海賊「倭寇」の拠点でもあった。塩田を作るため森林を伐採し、戦乱が止まず山林がなくなったため、冬は強い東北風にさらされた。風害で田畑は荒れ、家も壊れたことから「風神」の力で悪魔払いすることにした。4これが「風獅爺」で、金門のアニミズム信仰の対象になった。
 金門県が保護する「風獅爺」は全部で68体。石造りで全て直立像。風を鎮めるため「東北」に向けてたてられ、赤や黄色のマントを首に巻いた立ち姿はキュートで、愛嬌がある。高さは平均100センチから180センチ。左の写真は、島の中心部、金城鎮夏墅にある第64番目の風獅爺。高さ114センチ。かなり大きいペニスが形取られている。地元の人たちは「ひょうたん」に似ていることから、生殖器を「ひょうたん」と呼ぶ。風獅爺は「阿吽」の対になったものもあり、男女の別がある。
 こいつの顔をよくみてほしい。どこかで見た記憶はないか。沖縄の魔除け「シーサー」だ。シーサーとは琉球方言で「獅子」を意味し、門や屋根、村の高台などに置かれる。風獅爺こそシーサーの先祖で、600年前の明朝時代、金門を含む福建(閩=ビン)から琉球王朝に移住した人たちがもたらした。閩人(福建人)は、現在の那覇市久米町あたりに住んだことから、彼らを「久米36姓」と呼ぶ。「36姓」とは多くのビン人が移住したことを意味している。彼らは、天文学など当時の先進知識・技術を持っていたため、琉球王朝は重要な役職を与えたという。沖縄県の仲井真知事は自ら「久米36姓」の末裔と公言している。
  右の写真は、那覇市壺屋のやむちん通近くにある古民家の瓦屋根のシーサーである。直立していないから、風獅爺と比較し難いかもしれないが顔の造作は全く同じであることが分かろう。
 話はだいぶ金門島から飛んでしまった。だが民間に伝承された文化をみれば、中世の東アジア海洋文化の下で、人と文化の交流がいかに豊かで自由に行われたかが分かる。例えば、沖縄に移住した「久米36姓」と同じ閩人(福建人)は、ほぼ同時期に台湾に渡り、先住民と共に台湾に定住するのである。600年後に、子孫が金門島をめぐって死闘し、「統一か独立か」(統独)の争いを続け、さらに尖閣諸島(釣魚台)をめぐり領有権争い(日中台)を展開することなど想像できなかったに違いない。風獅爺やシーサーが、大口を空けて笑っているような気がしてくる。
「田川福松」の世界
 金門島などから閩人が琉球、台湾などに移住したころ(13世紀~16世紀半)、朝鮮や中国沿岸部や東南アジアでは倭寇(日本の海賊)や、密貿易を行う貿易商人が自由に海を渡って往来した。大航海時代の幕開けと共に、東アジアでも「グローバリゼーション」が始まったのである。下の図は、九州、四国を拠点としていた倭寇が、朝鮮半島から渤海、黄海、東シナ海を経て、山東、江蘇、福建、広東や琉球、海南島などへと渡った海路を示した地図である5。「中世倭人伝」(岩波新書1993年)などの著書がある東京大学の村井章介によると、当時は国家概念が明確ではなく、九州、朝鮮半島沿岸、中国沿岸といった環東シナ海の人々が国家の枠組みを超えた一つの共同体を形成していた。倭寇の「倭人」とは、「倭語」や「倭服」など独自の文化をもつ「日本」とは別の人間集団だとし、「境界に生きる人々」(マージナル・マン)と呼んだ。倭寇の本質は国籍や民族を超えた人間集団であり、日本人、朝鮮人といった区別は無意味だというのである。
 「マージナル・マン」の典型が、中国と台湾で「民族英雄」と称賛される鄭成功(1624ー62年)であろう。彼は長崎県平戸生まれ。父は閩人で「倭寇」の鄭芝龍、母親は田川まつ。幼名は「福松」といい7歳まで平戸で育ったから、「倭語」をしゃべったのだろう。近松門左衛門の浄瑠璃「国姓爺合戦」のモデルである。7歳の時、父が密貿易の拠点としていた廈門に連れてこられた。
 かなりのイケメンで、官吏に登用される「院考」にも合格したから、秀才でもあった。1644年に明が滅びると、明の王族は各地に亡命政権を作り、父の鄭芝龍は、明朝復興を目指す朱聿鍵の隆武帝を後押しした。ある時朱が「福松」を謁見し、(国姓である)朱の姓を与えたが、福松は固辞し「成功」を名乗るようになったという。これが「国姓爺」の名の由来である。
 清朝打倒に燃える鄭成功は、10数万の軍勢を率いて南京まで北上するも失敗。61年に数百隻の船と12万の大軍を率いて台湾へと転戦するが、このとき出発した港が金門島中央部の料羅湾。現在の「尚義空港」のあたりである。鄭成功軍は61年4月30日、現在の台湾・台南に上陸。
オランダ軍の本拠があった赤崁楼(プロビンシア城)と安平のゼーランシア城を相次いで攻撃。その年の12月、和平交渉に持ち込み、翌1662年2月オランダは台湾から撤退した。鄭成功はこの年5月、明朝の復活の夢を果たさず39歳で急逝した。そして台湾は1684年、清に正式編入されるのである。1949年、国共内戦に破れ台湾に退却した国民党政権が、鄭成功の生涯と自分たちの境遇を重ね合わせて考えたとしても不思議はない。(写真は、廈門・鼓浪嶼に建つ巨大な鄭成功像。台湾の方向を睨んでいる)






国民国家超える意識
 鄭成功は「倭語」を話したが、「倭人」という意識はなかっただろう。境界に生きるマージナル人だからである。21世紀の世界は領土、領海、主権、国籍という国民国家が人工的に引いた境界線の中で生きている。国際的に承認された理念であり、この枠組みを否定するわけではない。だが、われわれが金科玉条のように奉る国家主権や領土の観念に、時空を超えた普遍性があるわけではない。アジアではわずか150年の歴史だ。ここからは、持論を展開する小論になるから、鬱陶しく感じる読者は読み飛ばしてほしい。
 明治維新以降に確立した国民国家は、西欧列強に追いつき世界の一流国家になるため、最も速く効率的に近代化を実現する方法でもあった。キリスト教と市民社会の理念を基盤に成立した欧州の国民国家と異なり、幕藩体制に代わり日本を統合する理念はなかった。そこで明治政府は、天皇を頂点にいただく上からのナショナリズムと、それを支える国家・社会の序列・秩序を形成していく。この序列・秩序構造を平面図式化すると、次のようになる。国家という大きな円の中心に天皇が座り、その周囲に政府、企業、地域、家族という序列化された共同体が同心円を形作る。個人はもちろん各共同体は、円心に近いより大きな共同体に服従することが求められる。そうした序列・秩序構造は自覚されないまま、われわれ日本人の意識に深く根付いた。島国で単一民族という幻想の下で、同質性を重視し、序列と秩序に従わない「異端」を排除する精神構造の背景も、このように説明できるだろう。
 敗戦によって経済がより大きな重心を占めるようになるが、伝統的な序列・秩序と精神構造は生き残った。しかし冷戦終結とバブルの崩壊、経済グローバル化がこの構造を揺るがす。経済大国という近代化の目標を達成したいま、それに代わる国家目標を見つけるのは簡単ではない。経済大国に向かって国家秩序を維持してきた家族共同体や企業共同体は、国家に収斂されない別の円心を持ち始めたからである。
「囲い込み」意識から自由に
 それを促した最大の要因が、経済グローバル化である。グローバル化とは、あらゆる市場が国境を超えて移動することであり、一国の経済主権を無力化してしまう。だが人間の意識は、構造変化になかなか対応できない。150年に及ぶ国民国家の秩序が崩れ始めると、戦前の強力な国家再興を夢見る復古主義がかま首をもたげる。だが、これは自衛隊の元航空幕僚長を「軍神」のようにあがめる国家主義者だけではない。世論形成に大きな力を持つメディアも同様だ。次の一文を読んで欲しい。
 ―またしても国会は衆参で多数派が異なる「ねじれ状態」となり、今後の政治状況は一層深刻度を増すことになりそうだ。漂流を続ける「日本丸」はどこへ向かうのか、考えると気が重くなる―
 これは参院選挙直後に、ある全国メディアの編集トップが書いた文章である。一見、日本の将来を憂える理性的な文章のように映るかもしれない。だが「漂流を続ける『日本丸』」に収斂する意識こそ、古い秩序の虜であることが透けて見える。構造変化を自覚しない精神的退廃といってもよいだろう。上の一文もそうだが、「明確な国家理念」「国家戦略」「強力なリーダーシップ」というフレーズをメディアが繰り返すのは危うい兆候である。「強力な指導者」が「明確な国家理念」を打ち出せば、素直に従うというのだろうか。少なくとも私はごめんだ。中国、インドなど新興国が大国化する21世紀、13億人の市場は境界の向こう側にある市場ではない。心理的な境界(国境)を引き、自分の領域(国家)を囲い込む意識では、東アジアで動き始めた経済統合に対応できない。隣国が、国内総生産(GDP)の総額で日本を追い越したからといって、ヒステリックになる必要はない。経済を意識の上で、囲い込んだ国境から見る時代はとっくに終わっている。「遅れた独裁国家」に対して「敵対型ナショナリズム」を燃やすのは、逆立ちした優越感と大国意識の反映でしかない。「論文」はこれで終わる。
現代のマージナル人
 1979年5月16日夜、金門島東北端の馬山の台湾軍ラジオステーションから、長身の台湾下士官が海に飛び込んだ。中国が金門島への砲撃を停止した直後である。引き潮なら中間線を超え中国領の「角嶼」まで2.3キロ。28歳の青年下士官は、バレーボールを「浮き輪」に、対岸まで泳ぎ中国に亡命した。当時、「自由」を求めて戦闘機ごと台湾に亡命する中国兵士は後を絶たなかったが、台湾兵の中国亡命は希だった。それだけに亡命はさまざまな憶測を呼んだ。
 それから約30年後の2008年2月、世界銀行は中国出身者を初めて副総裁に任命したと発表した。林毅夫(写真)という名の副総裁こそ、金門島から中国に泳いだあの青年だった。55歳になっていた。「改革開放政策に共鳴し、10億人のために経済学で貢献したい」と、亡命の動機を語っていた林は、台湾政治大で企業管理修士をとっていたが、亡命後に北京大で経済学を専攻。その後、米シカゴ大やエール大で博士号を取得し、87年に帰国後は国務院発展研究センター農村部副部長などを歴任した。朱鎔基前首相の信頼が厚い、市場経済化には欠くことのできない人材である。亡命したため、台湾側は林の入境を認めておらず、2002年に宜蘭県に住む父親が死去した時も帰国はかなわなかった。林の実兄も、東京・大森の整形外科に務める「マージナル人」。林は、仕事に疲れると東京の兄の元を訪れるという。
新しいフロンティア
 30年前、林が駐屯していた金門島ではこの8月初め、両岸の水泳選手85人がアモイまで約7キロを泳ぐ遠泳大会(金門県とアモイ市共催)が行われ6、全員が1時間半から2時間半をかけて泳ぎ切った。李沃士・金門県長は「反共の最前線だった金門は両岸交流の最前線となった」とあいさつし「両岸平和のための先頭を切りたい」と語った。馬英九政権は、ことし末から大金門と小金門をつなぐ橋の建設に着工する。地元の金門県は将来、この橋を厦門までつなげ「金厦生活圏」の橋梁とし、金門島の生き残りをかけようとしている。
 陳水扁時代、政権中枢で金門島をカジノの島にして「中国大陸にかえす」構想が検討されていたのを思い出す。20世紀型の「主権論」に基づく「一つの中国」の観念は、いつまで生き続けるのだろうか。統一せずに一体化し始めた「生活圏」は、硬直化した主権観念からは産まれない。鄭成功をはじめ多くのマージナル人が、金門島を拠点に東アジアのフロンティア(最先端)を切り開いた。国民国家は消えないが、自分の意識の中に境界を引く旧思考とは訣別したい。新しいフロンティアを切り開くのはマージナル人である。(敬称略)

(了)



 
1  中国政府は平和統一に向け、両岸の直接的な通商、通航、通信(三通)の実現を呼び掛けた。これに対し、台湾は安全保障上の問題などを理由に拒否してきたが、2001年1月、台湾の金門、馬祖両島と中国福建省間に限った「小三通」が実現した。その後、春節(旧正月)期間などに限った旅客機の直行便が運航されたが、「大三通」が実現するには馬英九政権の誕生を待たねばならなかった。「大三通」は2008年11月台北で行われた中台交流窓口機関のトップ会談で合意された。「三通」と両岸交流の概略は次の表を参照。

陳水扁政権 馬英九政権
両岸協議 20054月 連戦が国民党主席の肩書で訪中、胡錦濤と会談。5項目共通認識、4点の主張で合意
20055月 宋楚瑜が親民党主席の肩書きで訪中、胡錦濤と会談6項目合意
20086月 週末直行チャーター便、大陸中国人の台湾訪問を協議
200811月 江・陳会談で①食品安全メカニズムの推進②航空③海運直航開放④郵便協力の4項目で合意
20094月 ①定期便の運行開始②犯罪取締協力③金融協力3協議④中国資本の台湾投資の開放で共同声明
三通 20011月 金門・アモイ・馬祖間で「小三通」開始 20086月 「小三通」拡大。台湾本島居住者も金門、馬祖経由での中国訪問が可能に
20031月 春節チャーター便就航。54年来初めて
20061月 春節チャーター便拡大
20087月 週末チャーター便就航。
外国人の小三通利用が可能に
.
2008
12月 「三通」実現。航空貨物チャーター便、海運直航実現。チャーター便は週末から平日も実施
   
2 「聯合報」2010年1月3日付
3 「聯合報」2010年7月29日付
 4 「金門旅行ガイド」(金門県政府発行)
5 The Cambridge History of China, Vol. 7: The Ming Dynasty 1368-1644, Part I(英ケンブリッジ大出版局)
6 共同通信「砲弾飛び交った海で遠泳」2010年08月08日




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