中国的なるものを考える(電子版第74回・通算第116回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第76号 2017.03.29
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

封建制雑考 その四  1964年北京科学シンポジウムと封建制理論(中)
北京シンポジウム論文(PS論文)の歴史的コンテキストについて

 前回以降、5カ月が経ってしまった。昨年11月、12月が忙しかったせいもある。だが、それ以上に、PS論文の理解とその歴史的な位置づけが難しく、なかなか文章にできなかったからである。なお、ここで言うPS論文のPSとは北京シンポジウムの頭文字をとったものであり、北京科学シンポジウム参加論文、すなわち河音能平・村田修三・高尾一彦「日本封建時代の土地制度と階級構成」*のことである。
 筆者は、子供の頃より日本史が好きで、学生時代には、専攻は東洋史なのに日本史のサークルに所属していたこともある。1970年代初め、出版されたばかりの『講座日本史』全10巻(東大出版会)を購入し、夢中で読んだ記憶がある。特に第一・第二・第三巻を熱心に読んだ。今から思えば、執筆陣はいずれもスター揃いだった。各巻の序論を書いた門脇禎二、戸田芳実、永原慶二等についてはいうまでもない。あくまで筆者の関心から名を挙げるのだが、原秀三郎、吉田晶、河音能平、大山喬平、峰岸純夫、さらには都出比呂志、小山靖憲、脇田晴子、藤木久志のほか、そして後に社会史に転じる石井進、網野善彦まで執筆陣に名を連ねていた。
 1980年代前半に中国に三年滞在した後、筆者の読書は、当然、ほとんどが中国近現代史を中心とするものになり、日本史を読むことはなくなった。また、2000年前後からアジア的生産様式論争関連の論文や著作を読むようになり、日本史関連では石母田正、原秀三郎、吉田晶、黒田俊雄、塩沢君夫なども読んだが、やはり1980年代初めまでのものが大半であり、1980年以降の著書については、ほとんど読む機会を得なかった。ただ、今回話題にしているPS論文が1964年のものであるので、まだ残っている記憶を頼りに、簡単な言及ぐらいならば何とかできるのではないかと甘く考えていた。
 だが、前回の北京シンポジウム関連の記事・論文リストがけっこう長大なものとなり、PS論文へ内容について言及するところまでいかなかった。ということで、今回に残されたのは、PS論文の紹介のみであり、それだけで一回分(六千字から六千字から八千字)を埋めなければならなくなった、ということになる。これはけっこう重たい課題であった。
 実は一年ほど前から、日本における封建制概念の成立、日本封建制論の成立と終焉、といった内容を意識して読書を始めていた。きっかけは上原専禄『独逸中世史研究』(弘文堂, 1942)の議論に、封建制概念を中世日本に適用することについての躊躇みたいなものを感じたからである。日本の歴史諸学の先駆者たちが、feudalismを封建制と訳し、中世日本に適用することにどのような態度をとり、具体的にどのような内容において適用可能性を認めたのか、それを知りたいと思うようになった。また、そのような概念適用の実践が、戦前・戦後どのような形でマルクス史家によって継承され、最終的に挫折したのか、というのも重大な関心事であった。ともあれ、戦前のたとえば、福田徳三や朝河貫一などの封建制論から、戦後の石母田正(領主制)や黒田俊雄(権門体制)等の論争を経て、網野善彦の荘園公領制の提起(『日本中世土地制度史の研究』塙書房, 1991)に至るまでの主要著作を読んでみようと思い、少しずつ、読み進めていた。
 その過程で、マルクス史家に関しては、
 清水三男『上代の土地関係』(清水三男著作集第1巻、校倉書房, 1975)
 同   『中世荘園の基礎構造』(清水三男著作集第2巻、校倉書房, 1975)
 同   『日本中世の村落』(清水三男著作集第3巻, 校倉書房, 1974)
 戸田芳実『日本領主制成立の研究』(岩波書店, 1967)
 黒田俊雄『荘園制社会』(日本評論社, 1967)
 などを読んでいたので、12月下旬以後、大急ぎで、
 藤間生大『日本庄園史』(近藤書店, 1947)
 石母田正『中世的世界の形成』(東京大学出版会, 1957)
 松本新八郎『中世社会の研究』(東京大学出版会, 1956)
 河音能平『日本封建制成立史論』(東京大学出版会, 1971)
 大山喬平『日本中世農村史の研究』(岩波書店, 1978)
 工藤敬一『荘園制社会の基本構造』(塙書房, 2002)
 戸田芳実編『シンポジウム日本歴史5中世社会の形成 』(学生社, 1972)
 大山喬平編『シンポジウム日本歴史6荘園制』(学生社, 1972)
 網野善彦「荘園公領制の形成と構造」(竹内理三編『土地制度史Ⅰ』山川出版社, 1973)
 歴史科学協議会編 歴史科学大系第四巻『日本封建制の社会と国家(上)』(戸田芳実解説, 校倉書房, 1973)
 など、PS論文理解に直接必要な関連著書を読む作業を続けて来た。そのほか、
 高橋昌明『中世史の理論と方法』(校倉書房, 1997)
 保立道久『歴史学をみつめ直す―封建制概念の放棄』(校倉書房, 2004)
 木村茂光『戦後中世史研究と向き合う』(青木書店, 2012)
 関幸彦『武士の誕生』(講談社学術文庫Kindle版, 2017)
 などを参照し、諸論争の流れやその背景を知ろうとしてきた。

 余談だが、この数ヶ月、読書に苦しむところがあり、ずっとストレスを感じてきた。最近タブレット(Kindle)を使って何冊(たとえば、関幸彦2017)か読んでみたところ、あっさり読めてしまった。どうも、原因は視力の低下だったらしく、大きな文字のものであれば、ほぼストレスなく読めることがわかり、ほっとしている。洋書や文庫本はすでに拡大コピーして読むようにしているが、今後は普通の単行本(A5版、B6版)であっても、拡大コピーして読むか、あるいはスキャナーにかけPDFファイルにして、タブレットで読む、ということになりそうである。少し手間はかかるが、今後も同じように読書が続けられることを喜んでいる。
 話を元に戻すと、下記に見られるように、筆者の戦後史学(特に日本古代中世史学)の理解は、まだまだ皮相的なものである。理解がもっと進めば、よりやさしく、且つ明快に筋道を立てて書けるはずだが、今のところ、とてもその域には達していない。つぎはぎだらけの文章であるが、PS論文において意図された「アジアにおける封建制理論」の理解に行きつくための助走だと考えられたい。
 
 戦後日本の古代史・中世史研究を領導したのは、言うまでもなく石母田正であった。その最初の著書『中世的世界の形成』(伊藤書店, 1946)において提起された領主制理論は、その後長く学界に影響を与え続ける学説となった。すなわち、古代末期から中世への転換を推し進めたのは、荘園制の発展ではなく、領主制の展開こそが中世封建社会を成立させたとするものであった。すでに、戦前から戦中にかけ、清水三男は日本の荘園は西欧のマナーとは異なること、国衙領(公領)と荘園とが類似したものであること、それゆえ荘園制は律令制の土地公有制の対立物ではなかったこと、古代から中世への転換において、荘園制の果した役割は第二義的なものであったことなどを、説得力をもって語っていた。
 そこから、荘園制はむしろ古代的なものであり、中世社会は荘園制をもっては切り開かれないということになる。それゆえ、石母田は古代の延長に過ぎない荘園制を切り裂き、中世封建社会への展望をもたらすもの動力を領主制の展開に托すことになった。
 東大を中心とした歴史学研究会のメンバーであった石母田が、1939年春、藤間生大、松本新八郎とともに渡部義通の第三次教程(『日本歴史教程』第三冊)グループに参加し共同研究を開始したことはすでに述べた(『蒼蒼』第35回)。彼らは「歴史発展の五段階論」にもとづき古代奴隷制から中世封建社会への変革(転換)を解明しようとしていた。共同研究は渡部が1940年検挙され下獄したことによって終ったが、石母田等はその後もそれぞれ研究を継続し、戦後間もなく再発足した歴史学研究会を率い学界主流へと躍り出ることになる。1946年、石母田は『中世的世界の形成』を、藤間は『日本古代国家』を書き、古代・中世史分野にかぎらず、敗戦後の歴史学全体に強烈な影響を与えることになる(網野善彦『歴史としての戦後史学』日本エディタースクール出版部, 2000)。さらに1949年、歴研大会において松本新八郎は「原始・古代社会における基本的矛盾について」と題する基調報告を行ったが、同じく基調報告を行なった高橋幸八郎等の論文とともに、同年末『世界史の基本法則』(岩波書店)と題されて出版されている。これ以後、歴史発展の五段階論は「世界史の基本法則」の美称で呼ばれることになる。
 石母田は記念碑的な労作『中世的世界の形成』において、古代‐中世変革を奴隷制から農奴制への移行と規定し、その主旋律を、社会的剰余(労働及び生産物)の生産者である、奴隷から農奴への成長転化(進化)と捉えた。石母田が描いたのは、具体的には、東大寺領黒田荘(伊賀国)の荘園形成であったが、その形成過程における荘園領主(東大寺)と私営田領主・在地領主(武士団、源俊方など)の熾烈な抗争、そして前者の勝利と後者の敗北から、この地域における、中世の敗北と古代の再建が論じられている。この結論は、鎌倉時代初期の時点でのものであるが、もちろん、全体的には古代から中世への変革のプロセスにおける、一地域での出来事であった。
 問題は、石母田が、東大寺領黒田荘の杣工が東大寺にとって寺奴である以上、杣工はふつうの農民と同じように家族をなし田畑を耕したとしても、奴隷にすぎないと断じている点にある。杣工とは寺院などの造営のために必要な木材を得るために指定された杣(山or山林)において、伐採や製材に従事するものであり、今風にいえば林業従事者であった。東大寺黒田荘の杣工すなわち東大寺に属する樵(きこり)たちは、おそらく当初より家族をなして寺領の杣において伐採や製材に従事していたのであろう。多分、人口増加におされてであろうが、次第に公領の土地を耕すようになる。初めは通い作をしていたのであろうが、ついには公領に家屋を持ち、そこで家族を営みながら田畑を耕すことになる。ますます家族数も増え、さらにその営農の向上とともに、なかには田堵や名主にまでなるものも出現するにいたる。
 このような杣工の出作は国衙側からみれば、土地のみならずその家もまた公領にある以上、公領農民と同じように田租・雑徭(所当・公事)を納めるのは当然であった。だが、東大寺側からみれば、杣工は伝来の寺奴であり、出作といえども、もとより国衙への負担を収める道理は存在しないということになる。東大寺と国衙の争いは数世紀にもおよぶが、出作地を含め東大寺の所領であるとの、東大寺の強引な要求が、勃興しつつあった在地領主(武士団)の抵抗をもはねのけ、ついには実現してしまう。東大寺領黒田荘の成立であり、石母田にとっては、まさに、中世の敗北・古代の再建であった。
 公領の土地を出作する杣工たちは、たしかに身分はまだ寺奴のままであった。だが、その実態はすでにふつうの公領農民と変らぬ小経営農民であった。しかし石母田は、たとえ実態がそうであっても、杣工は寺側の労働編成において寺奴として組織されている以上、生産関係において依然として奴隷であり、そこから、杣工たちの、奴隷の農奴への成長転化を否定してしまう。見事な理屈だが、杣工自身の再生産が出作地の経営において実現している以上、強弁でしかない。たぶん、当時、多くの歴史家たちが感じていたように、寺奴であるというのは、あくまで、国衙への対抗のための、農民統制のための、東大寺側のイデオロギー的主張であり、実際の経済的社会構成上の規定は、「世界史の基本法則」を信奉していた当時としては、「農奴」と規定するのがもっとも妥当であったはずである。
 同じく第三次教程グループのメンバーであった松本新八郎は、戦時中、「名田の経営の成立」(『中世社会の研究』所収)を書き、古代末期における農業経営の中核たる名田経営に関して、「名田経営の成立とその発展はそれ自体奴隷制的なものであ」ったこと、名田経営の解体と分裂によってはじめて農奴的な農経営が現れた、と説いた。この場合の奴隷的な労働力とは、奴婢のほか寄口など、世帯における従属的な要素であり、それらが家父長のもと奴隷的に使役される。この種の家父長的奴隷制は領主経営を支えると考えられており、領主制理論は名田経営=家父長制的奴隷制説によって強く補強されることになった。
 奴隷制から封建制(農奴制)への移行、奴隷から農奴への進化といったシェーマ(発展図式)は、奴隷および奴隷制的なエレメントが残るかぎり、依然として移行や進化の未完成との判定がなされる可能性をもつ。石母田自身、鎌倉期は純粋の封建制ではないとの認識があり、『中世的世界の形成』所収論文の記述からも、守護領国制をもって地域的封建制=純粋封建制の成立と捉えていることがわかる。また南北朝期をもって封建制の成立と捉える僚友松本新八郎や領主制理論の継承者永原慶二等の諸説は、同じように、鎌倉期は奴隷および奴隷制のエレメント(古代的要素)が未だ色濃く残った社会との見方が前提にある。このような議論、つまり中世における家父長的奴隷制の残存についての議論は、郎党・所従・下人らの存在があるかぎり続けられるものだが、それらがあるかぎり家父長制的奴隷制の社会であるとの認識は、結局は安良城盛昭の太閤検地封建革命説を生むにいたる。太閤検地以後の、下人など従属的労働力を必要としない単婚家族による広汎な小農経営の成立こそ封建社会の成立だとする安良城理論が領主制理論の鬼子であるといわれる所以である。
 学界主流となった石母田正の主著たる『中世的世界の形成』および『古代末期政治史序説』(未来社, 1956)で述べられた領主制理論の骨子は、「荘園制下に広くみられる自営農的な田堵名主層は古代国家を解体させる力の一部を構成しはするが新しい社会関係を創出しえず、結局停滞的・頽廃的な性格の隷属関係を再生産すること、彼らを封建的に支配する領主制のみが反古代的な諸勢力を組織して古代国家と荘園制を打倒して新しい前進的な社会関係を創出しうる」(村田修三「日本封建制論」講座日本史第9巻『日本史学論争』東京大学出版会, 1971)とするものであった。在地領主はまさに革新の旗手であった。
 石母田領主制論を打破しようとする動きは、石母田によって新しい社会関係を創出しえないとされた荘園制下の自営的な農民の小経営生産の展開についての再評価から生まれてくる。1950年代後半、それはまず安良城説への批判というに形で始まった。封建制規定にとって、小経営的生産の主体が単婚家族であるかどうかなどはまったく無関係であるが、黒田はそこをつくとともに、封建的生産様式における基本的生産関係は、家父長的家族による小経営と大土地所有の対立にあること、それゆえ家父長的奴隷制は封建的社会構成の基本構成体ではないことを述べ、批判の第一歩を踏み出す。
 京都系のマルクス史家の先駆者である清水三男の古代・中世移行論において、奴隷制は重要なファクターとされていなかった。奴隷はたとえ農業労働に用いられたとしても、補助的な役割しか果さず、規定的なエレメントではなかった。当初領主制理論を受容していた黒田、戸田など京都系のマルクス史家たちは、次第に奴隷制から農奴制への移行、奴隷の農奴への進化といった考え方自体を放棄するようになる。同じマルクス史学の立場に立つとはいえ、渡部義通以来の奴隷制論を継承した石母田・藤間・松本とは、思想的系譜を異にすることが、次第に明確な理論的な立場の相違へと連なって行く。
 黒田は1963年権門体制論を唱え、学界において石母田に対抗する立場を築きつつあったが、以後、奴隷の農奴化ではない(さらには農奴制の形成でもない)班田農民の自立化を基軸に封建制論を構築することを目指した。『荘園制社会』(1967)において黒田は、検出されるべき主要な封建的ウクラードは田堵や名主の自立的経営であるべきであり、それと対立する領主の大土地所有の一形態として領主制があるにすぎず、新しい生産力の中心的な担い手である田堵名主層にもっとも適合する領主的大土地所有は荘園領主のそれであると明言する。黒田は田堵名主層のなかでも、自立的経営の主体として、領主制に向かう大名田堵層ではなく、小名田堵層を重視し、そこから、封建社会への展望において、領主制の道ではなく、非領主制の道こそ主要なものと主張するにいたる。
 それに対し、戸田・河音・大山・工藤は、第三の道を歩んだ。黒田『荘園制社会』と同時に、戸田の主著『日本領主制成立の研究』が出版され、両者の相異は鮮明となった。理論的スタンスにおいて、小経営的生産発展の重視という点においては黒田と共通しながらも、彼らは、在地領主の勧農機能を重視する立場―新領主制論―をとっている。とはいえ、彼らは、武士もまた貴族と同じく支配者の一翼とみなし、石母田の古代中世移行論に見られるような頽廃した古代に代り、活力に満ちた中世を切り開く新興の階級などといった過剰な役割を武士に与えているわけではない。
 戸田等は、古代また律令制(アジア的生産様式)のもとでの農民層の階層分解から、農奴主・農奴関係の形成、すなわち農奴制成立を構想する。当時の農業技術や生産力水準の低さゆえに、荒田など不安定耕地に対処することは難しかった。そのような古代末期の農業条件において、農奴主経営は、小農民の小経営生産に対し優位に立ち、その支配力を及ぼすことに依り農奴主経営の拡大がはかられる。戸田・河音などの間には、この困難な農業条件のもとにおける小経営生産の難しさ、それに対する田堵層の成長、領主的経営による支配の拡大と在地領主の勧農権の行使などの認識を共有しながらも、田堵層の農奴主経営の拡大から領主制が如何に成立するか、その間、公権の役割をどの程度評価するかに関して、それぞれ見解の相違がある。筆者の理解によれば、公権の役割について戸田がもっとも否定的であり、河音、大山、工藤と年齢が下がるにつれ、領主制形成における国家公権の媒介作用を積極的に捉えるようになる、との印象を受ける(大山, p.174; 工藤, p.201)。
 
 河音等執筆のPS論文は1964年、北京科学シンポジウムに向けて書かれたが、その学説が主張されるにいたった事情や背景は以上の如くであり、河音たち執筆者が属する戸田を中心としたグループの主張が、石母田や安良城らの理論や学説に対してばかりでなく、おそらく黒田のそれに対しても、明確な形をとるにいたったことの表明であったと思われる。
 戸田芳実「古代・封建時代共同研究活動の総括」(歴史科学協議会編,1973)などによればシンポジウムへの論文提出の具体的な経過は以下のようである。前年よりの中国学術代表団招請運動の総括を受け、民科京都支部歴史部会は北京シンポジウム参加に向けて動き出す。1964年1月17日、民科京都支部、日中友好協会京都府連の呼びかけにより、北京シンポジウム京都実行委員会準備会が結成される。この準備会に参加した日本史研究会・民科京都支部歴史部会が中心となって、1月18日、北京シンポジウムに参加を希望する京都(関西)の歴史関係の諸団体や個人が、研究報告や代表派遣を準備するための機関として「北京シンポジウム京都地区歴史部門研究連絡会」(略称歴研連)が発足し、関西規模に広げるように呼びかけを行っている(『歴史評論』163号)。このなかの古代・封建グループが、さらに古代と封建の二つの分科会に分かれ、論文作成および数回の研究会を行い、3月20日の合同研究会における討議を経て、「日本における土地国有制と奴隷制の本質」(門脇・戸田)および「日本封建時代の土地制度と階級構成」(河音・村田・高尾)の二論文にまとめられ、シンポジウムに提出することになる。
なお、PS論文末尾に、討論に参加した上田正昭以下33名の名前が付記されている。(続く)
 
 *河音能平・村田修三・高尾一彦「日本封建時代の土地制度と階級構成」(歴史科学協議会編, 1973所収)。