中国的なるものを考える(電子版第78回・通算第120回)[注]
福本 勝清
(明治大学教授)

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電子礫・蒼蒼
第84号 2018.05.31.
[注]蒼蒼社版『蒼蒼』からの連載です。第43回までのものは蒼蒼社のホームページで読めます。 蒼蒼 目次へ >>

1930年代左翼のアジア的生産様式論 その二 
野呂栄太郎とアジア的生産様式論争(上)

1. 野呂『発達史』の理解は簡単ではない
 戦前の資本主義論争における講座派の理論的基礎は、いうまでもなく野呂栄太郎『日本資本主義発達史』(1930)において築かれた。では、この著作のどこにそれほどのインパクトがあったのであろうか。
 筆者が、最初に読んだのは、具体的な年月は思い出せないのだが、おそらく20歳代の後半であったと思われる。少なくとも中国留学(1981-84)以前には読んでいた記憶がある。残念ながら、最初に読んだのが、1952年版岩波文庫『発達史』(宇佐美誠次郎解説)であったためか、何かすごいことが書かれてあるとは感じなかった。名著として知られているわりには、意外に普通の本だ、というのが当時の率直な印象であった。
 留学したのは、筆者が33歳の時だったが、それまで研究者になろうなどと思ったことはなかった。だから、何を読むにしても、ただの読者として読んでいただけのことであり、面白いか、面白くないか、の基準しかなかったように思う。学生時代、東洋史とはいえ史学専攻だったので、日本近代史に関する著作、たとえば色川大吉『新編 明治精神史』(中央公論社 1973)に感動し、その時代を理解するために、講座日本史5『明治維新』(東京大学出版会 1971, 大石嘉一郎序論)や原口清『日本近代国家の形成』(岩波書店1968)など近代史関係の著作を少しは読んでいた記憶がある。そのような一連の読書のなかで、野呂『発達史』(岩波文庫 1952)を読んだわけで、なにか際立ったところのある著作にはとても思えなかった。
 前回述べたように、この1952年版岩波文庫は、戦前の鉄塔書院版(1930)ではなく、第二編、第四編が欠けた不完全な『発達史』であった。岩波文庫完全版は、野呂没後50周年を記念し、1983年に出版されている。戦前版の目次は以下のようであった。

 日本資本主義発達史(鉄塔書院 1930)(注1)
第一編 日本資本主義発達史
日本資本主義前史
日本資本主義発達史
第二編 「プチ・帝国主義」論批判
第三編 日本資本主義発達の歴史的諸条件
第四編 日本における土地所有関係の特質
猪俣津南雄氏著「現代日本ブルジョアジーの政治的地位」を評す
日本における土地所有関係について―なかんずく、いわゆる「封建的絶対主義勢力の階級的物質的基礎」の問題を中心として
第五編 日本資本主義現段階の諸矛盾

 二度目に『発達史』を読んだのは、『アジア的生産様式論争 戦前日本編』(『明治大学教養論集』№351, 2002.1)を書く前であったと思われるが、多分、読んだのは『野呂栄太郎全集 上』(新日本出版社 1965)であろう。だが、高橋亀吉批判である第二編 「「プチ・帝国主義」論批判」については確かに読んだ記憶があるのだが、第四編「日本における土地所有関係の特質」については記憶があいまいである。筆者は、書籍を読む場合、必要なところだけ、あるいは該当箇所だけを読むことはほとんどない。何度も読んでいる書物の場合は、必要な部分や該当箇所だけを読むが、それ以外は、書き手の意図や考え方、あるいはその人間性まで含めて、幅広く知りたいと思うので、できるだけ本全体を読みたいと考えている。退官記念とか還暦記念を謳う論文集の場合でも、目的の論文以外に関連するものがあれば、それも読んでしまう方である。なので、二回目の『発達史』で、第二編だけを読んだとは、想像しにくい。また、「アジア的生産様式論争史」執筆準備のための読書であったので、「国家=最高地主説」に関わる第四編を読まなかったとは考えられない。多分、『発達史』をフルで読んだけれども、第四編の意義を理解することはできなかった、ということであろう。
 『発達史』を、三回目に読むきっかけは、前シリーズ『封建制雑考』で取り上げたP・S論文(北京シンポジウム論文)、河音能平・村田修三・高尾一彦「日本封建時代の土地制度と階級構成」の理解のために、石母田正、松本新八郎、藤間生大、黒田俊雄、戸田芳実など歴研系諸家の先行研究を読んだわけだが、その手始めに、まず彼らの歴史理論の源流である講座派の始祖が、古代や中世についてどのようなことを言っていたのかを確認したかった、というものである。
 ただ『発達史』第一編の前半である「日本資本主義前史」は、近代以前の日本経済史を素描しただけのものである。また、よく知られた野呂の「国家=最高地主説」も、まだ登場しない。班田制など古代の土地所有に関しても簡単な記述に終わっている。大化改新につづく天智・天武期の「専制体制」の成立に、国家=最高地主説の展開があるのではないかと期待していると、ないので、はぐらかされた気分になる。班田制から荘園制への展開も土地公有から土地私有制への移行と、それを基礎とする封建社会の成立を述べる常識的なものである。考えれば、「資本主義前史」を書いた時の野呂はまだ26歳であり、理論的な探求を始めたばかりであった。それでも、徳川封建制について「徳川氏が全国土の事実上の最高所有者として、全国の四分の一に当たるその直轄地すなわち天領と極少量なる皇室領及び寺社領を除いた爾余の地に、所謂三百諸侯を封じたのである」とし、諸侯がそれぞれ所領を持つほか、それ以外の一般の武士が城下に集住し在地との関わりを失ったことを述べ、「徳川氏制覇の下に於ける制度は、封建制度とは違ったものであるが、併し封建制度以外のものではない」と、その後の理論的な展開を予想させる記述をしている(江戸期については、尾藤正英『江戸時代とはなにか』岩波書店 1991 を参照されたい)。
 結局、その後の展開に期待しつつ、第一編の後半「日本資本主義発達史」以後も読み続けることになった。この第一編後半を引き継いだのは、第三編「日本資本主義発達の歴史的諸条件」であるが、野呂が最初の共産党大弾圧である「三・一五」事件前後に、苦労しながら、理論誌『マルクス主義講座』に掲載しつづけたものである。原題はこれも「日本資本主義発達史」であった。明治維新後の地租改正を、封建的地代(生産物地代)の貨幣地代への転化とみなし、その地代=地租の徴収者である明治国家を「唯一最高の独占的土地領有者たる国家」と規定している点で、第四編への助走ともなっている。
 
 第四編の印象は強烈であった。第四編「日本における土地所有関係の特質」は、1929年、三回にわたり『思想』(岩波書店)に掲載されたものであり、いずれも猪俣津南雄「現代日本ブルジョアジーの政治的地位」(1927, 以下「政治的地位」と略す)に、その批判の矛先が向けられている。筆者は野呂と同じように猪俣についても良い読者でありたいと思っている。猪俣については『窮乏の農村』(1934)が岩波文庫から出た時(1982年)に読み、続いて『農村問題入門』(1937)を読み、そのアジア的生産様式的視角からの取り組みに興味を持ち、その後も猪俣に対する関心を持ち続けている。また野呂『発達史』と並行して猪俣『現代日本研究』(1929)を読み、その戦略論にある柔らかさや斬新さに共感するところがあった。だが、野呂がしかけた「絶対主義の階級的物質的基礎」をめぐる論争においては、猪俣は恰好の敵役であった。『発達史』第四編において、明治維新以後の一連の変革によって、絶対主義の階級的物質的基礎が失われたとする猪俣の主張を、野呂は真っ向から厳しく批判すると同時に、その物質的基礎を最高地主としての国家、およびその収取形態である「地租=地代」に求めるものであった。まず、猪俣の主張は:
 
 封建的絶対主義を倒した明治維新の変革運動の先頭にたったのは、ブルジョアジーではなく、武士階級の下層であった。後者によって組織された維新政府の歴史的使命は、資本制生産の移植及び発展の極度の促進によって、急速に、後進国日本をば、競争に運命づけられた資本主義世界の一環たらしめることにあった。維新政府の土地政策は、此の使命に忠実に封建的絶対主義の基たる封建性農業の土地政策を撤廃し、此の制度に固有なる旧諸特権を実質的に破棄し、半封建的な大土地所有の成立発展を不可能ならしめた。かくて、前時代から残存物として、資本主義的発展と対立する根本矛盾となるべきものが取除かれた。それと共に、封建的絶対主義勢力を強大なる政治的残存物たらしむべき物質的基礎もまた取除かれ、前者とブルジョアジーの激烈なる衝突の必然性も消滅した(猪俣 1927: p.29)。
 
 上記から、猪俣が、明治維新=ブルジョア革命論であることがわかるであろう(注2)。この「絶対主義の物質的基礎」に関する議論において、猪俣は近代ヨーロッパにおける大土地所有制の存続を念頭に、日本においては明治維新以後の一連の土地の変革により、封建的な農業制度が解体されたので、絶対主義の物質的基礎は消失したと論じていた。それゆえ、政治支配のヘゲモニーは旧封建制力あるいは地主階級からブルジョアジーに移っており、むしろ問題なのは物質的基礎が除去されたのに旧勢力の影響がいまだ残っていることだ、と述べる。そして、この部分に野呂はもっとも厳しく反応した。日本農業における土地制度は、以前より小所有であり、大土地所有は支配的ではなかったとして、猪俣がグーツヘルシャフト(農業領主制)に代表されるドイツやロシアなどの大土地所有の例を挙げ、それのみが絶対主義の物質的基礎をなす農業制度であるかのように主張するのは誤りだ、と野呂は厳しく批判している。
 野呂は、猪俣の議論に対し、現実の直接生産者=小作民と対峙しているは借地資本家のようなブルジョアではなく地主階級であることを指摘する。だが、この地主階級の土地所有あるいは地主=小作関係が絶対主義の物質的基礎だというのではない。野呂はそのような地主=小作関係を包み込む、より大きな収取システムを提示する。その中心には国家(厳密にいえばアジア的国家)が据えられる。その理論的根拠として、マルクスの著名な「地代と租税の一致」に関するパラグラフを引用している。以下は、野呂『発達史』からの引用である。
 
 「土地所有者たると同時に主権者として直接彼等(農民)に対立しているものが,私的士地所有者ではなく、アジアに於けるが如く国家であるとすれば,地代と租税は一致する、と云うよりも寧ろその際にはかかる地代の形態と異なった何等の租税も存在しない。かかる事情の下では、従属関係は政治的にも経済的にも、この国家への凡ての臣隷関係に共通なる形態よりも、何等苛酷なる形態をもつことを要せぬ。国家がここでは最高の地主である。主権はここでは国民的範囲に集積せられたる上地所有である」(マルクス.『資本論』第三巻,第二部,三二四頁)(野呂 1930:p.293)。
 
 この「地代と租税の一致」のパラグラフは、『資本論』第三部第47章「地代の発生史」の一節である。「地代と租税の一致」は、一般にはアジア的社会における収取の本質を示すものと考えられており、それゆえ、アジア的生産様式論者にとっては、アジア的生産様式における収取システムの基礎であり、他の前資本主義的生産様式に対し、その固有性を示すものとされている。

2. 「地代と租税の一致」をどう理解するのか
 上記のパラグラフを、筆者なりにわかりやすく説明すれば、次のようになる。以下の説明は野呂のものではなく、「地代と租税の一致」を理解するために、筆者が思いついたものであることを了解されたい。
 たとえば、均田制や班田制のような土地国有制下の農民を考えて見よう。これらの時期、まぎれもなく国家は地主であるが、田を支給される農民が国家に対して負担する租庸調および雑役は、はたして租税であろうか地代であろうか。土地国有制のもとにおいては、租税といっても地代といってもどちらでもよく、租税と地代は一体となっている、ということであろう。これは租税分、あれは地代分などという区別はない。このような土地国有制の下においては、当然、土地私有は存在せず、地主も存在しない。領主も諸侯も存在しない。国家を支えているのは国家機構の各クラスにおいてその職務を担う官僚階級ということになり、君主の支配のもと国家は集権化する。また、パラグラフ後段の臣従関係云々については、直接生産者である農民と国家との関係は、基本的には国家と公民、王あるいは皇帝と臣民の関係であり、農奴その他の隷属民のような、それよりも苛酷な形態をとる必要はない、と述べている。
 では、この土地国有制、あるいは土地公有制のもとにおいて、土地私有が生れ、広がった場合、どのような変化が起こるのであろうか。当然、地代と租税の一致は存在しなくなる。小作農民は、大体は、収穫の半分を地代として地主に納め、自作農および地主が貢租を国家に納める。だが、アジア的社会の場合、たとえ土地私有制が成立したとしても、農民と国家の収取の在り方に基本的な変化はない。ただ、農民が直接国家に上納したものが、土地私有制の成立に伴い、従来と同じく直接国家へ上納するチャンネルに加え、地主を通して上納するチャンネルが加わり、上納のチャンネルが複数化しただけのことである。それゆえ、土地私有制によって君主の力に何か制限が加えられるというわけではない。
 これを国家や君主の立場からどう見えるのか考えて見よう。どのような農民社会を想定したとしても、農民が生活に困り貢租を負担し得なくなるというケースは、頻出する。この際、苛政・悪政は論外としても、自然災害は普通に起こる。ちょっとした気温の変化、降雨の多寡によって、不作あるいは凶作がもたらされる。戦災や悪疫の流行によっても大きな影響を被る。経済発展にともなう貨幣経済の浸透でさえ、農民経済を傷つける。貢租の金納化はとくに問題が大きく、豊作の歳でさえ、主穀の価格低下により、貢租負担のためより多くの主穀を売らなければならず、経営は悪化し生活は苦しくなる(豊作貧乏)。どの人生にもしばしば起こる働き手の突然の死亡(病死・事故死)は、一家の経済を傾ける可能性が高い。
 いずれの場合にせよ、生活に窮した農民は、富者から借財し、その後それを返却できないとすれば、結局は土地を売り、その土地を富者から借り小作となる以外にない。社会における救済装置がほとんど存在しないか、あるいは存在したとしても不十分であるか、うまく機能していない場合、借財(金or主穀)以外に他の方法はない。また担保は土地もしくは人身ということになる。土地国有あるいは公有といっても様々な形態があるが、一般的には土地(耕地)の世襲は認められても、土地私有が認められていない以上、農民それぞれの耕作地も、私有地ではないので土地の売却はできないはずである。均田制・班田制のような土地国有制の場合、私有地の増大は農民への支給地の減少に直結するだけに国家はそれを強く規制する。だが、均田制や班田制の下でも、様々な形をとりつつ土地の譲渡は行われ、結果として、多かれ少なかれ、富者による土地兼併(土地の集積)は進んでいく。
 重要なのはこの場合においても、国家は、私有地の増大が小農の貧困化をいっそう推し進めるものとして憂いたとしても、私有地からも国家への上納が行われる限り、自己の統制下にあるものとみなし、最終的には、なりゆきにまかせる、ということである。そして、小作から地主への上納=地代から、貢租を差し引いた部分、つまり地主の手元に残る部分を、国家および君主から地主への恩恵・贈与であると考える。なぜならば、田地は本来的には国家のもの、君主のものだからである。地主の権利の前に、国家および君主の権利が優先する。また、必要に応じて、その恩恵・贈与を取り上げるのも、国家や君主の意思次第だということになる。そうである以上、その恩恵・贈与に報いるべく、地主たちは、なおいっそう国家および君主への忠誠に励まなければならない。
 すなわち、土地国有制のもとにあった社会から土地私有が生れたとしても、国家や君主の国土に対する権利に変更があるわけではない。君主は私人が土地を私有し、その土地を他人に耕作させ、そこから租税に倍する(時には数倍にもおよぶ)地代を徴収することを大目に見ているだけであって、地主たちの農民搾取が行き過ぎれば、様々な口実を設け地主を罰することをいとはない。たとえ、地代の徴収を国法で認めたとしても、法そのものが君主の臣民に対する恩恵であって、本来的な王土王民思想(普天率土主義)に変更があるわけではない。
 現実の地方支配や農村支配を考慮にいれた場合、君主は官僚を手足として国家を運営し施策を施したとしても、社会のすみずみまで、目が届くわけではないので、日頃より君主の恩恵を被っている農村の地主たちは、地方の安定のために尽力しなければならない。だが、そのことは地方の利益代表者になれというのではない。むしろ逆である。地方指導者に必要なことは、君主の利益を優先し、その手足となって働くことであり、地域の利害を擁護することは君主の利害に反しない限りにおいて許されるにすぎない。地方指導者に必要なことは中央の命令を執行する能力であり、地方問題解決能力の有無は二の次である。これらから、地主たちに期待されているのは、王室(帝室)の藩屏となることであり、地主が小作から上納させている地代とは、地主たちの国家や君主への奉仕活動のための財源であると同時に、その貢献に対する報酬でもある。もちろん、気前のよい君主なら、その功に応じて、たとえば、爵位の授与、あらたな特権の付与(貢租の減額や免除)、正式な官吏へ抜擢、中央官僚への出世など、さらなる報酬が期待できるであろう。
 ここまで来れば、これを現代に置き換えて見ない方はないであろう。社会主義革命後は、土地も他の生産手段もほぼ国有もしくは公有であった。社会主義という名の均田制(社会主義均田制)といってよいであろう。改革開放以後、土地私有は認められなかったが、私的利用が認められ、また他の生産手段も私有が認められ、それによる経営と致富もまた奨励された。だが、生産手段の私有・致富を認めたのも党および国家である以上(あるいは、生産・営業・売買など私的な経済活動も、すべて国有地もしくは公有地においてなされている以上)、公益に背いてはならず、富者・資産家は党および政府の藩屏として忠勤に励む義務(忠誠義務)がある、ということになる。彼らには資産規模や種々の位階に応じた義務と報酬とがあるが、特権も報酬も忠誠の限りにおいて認められる。また、その義務に背く者は容赦なく罰せられる、時には蓄積された資産さえ収公される、云々。
 筆者は、これが、アジア的社会における所有(すなわちアジア的所有)の本質的な在り方とその顕現だと考えている。なぜであろうか。問題は、やはりアジア的生産様式論に戻っていく。アジア的社会においては、農民の個々の経営成立の前に、治水・灌漑のための共同労働=公共事業があり、水利施設の創設・維持・管理などは公共セクターによって担わなければならなかった。とくに、大河や大平原を対象にした治水・灌漑事業は、最終的には中央政府およびその代理人の手によって担われることになる。このような大規模公共事業なしには個々の農民の経営が成り立たない以上、農業経営の前提として国家の公共事業が存在することになり、農民たちはその国家の公共的機能の維持にために貢納及び賦役を納めることが公民(農民)としての義務だと思念されるようになる(現実の華北農業において旱地農業が主流であったことは、この仮説に反するようであるが、問題は中国国家の範型をどこに求めるかであろう。範型が成立した時期を春秋・戦国期—諸子百家等による国家像の提出の時期―から秦漢期にかけてであるとすると、旱地農法ではなく、やはり水利に依存した農業が主流であり、その主穀が国家による主要な収取を成したと考えるべきであろう)。
 アジア的社会が成熟するにつれ、農業以外の諸産業も次第に発展する。だが、この場合においても、国家の経済機能が果たす役割が大きく、主要な産業は国家の経済活動から様々な刺激を受けつつ、あるいは国家の関与を受けつつ発展し続けたと考えられる(実際には国家とは無関係な経済活動も莫大にあったであろう。だが、それが一定の大きさになれば、国家が見逃すはずはなく、種々の税源とみなされ、その統制下に入らざるを得なかったであろう)。その点において、アジア的社会は、まず個々の経営があり、その協同により公共セクターが成立すると考える古典古代や西欧世界とは異なった価値観を有している。
 
3. 「地代と租税の一致」と近世および近代
 野呂の国家=最高地主説の理解のためには、さらに明治以前の社会システムをも考慮に入れて置かなければならない。というのも、この国家=最高地主説が対象としているのは、意外にも、古代ではなく、江戸期および明治期であるからである。誰も近世社会を土地国有制であったとは言わないであろう。再度、問題を復習すると、先ず、近世初期、織豊政権を引き継いだ幕府が、全土を幕府の天領(直轄地)とした場合を想定してみよう。この場合、百姓が公方に納める年貢・諸役は、租税であろうか地代であろうか。もちろん、この場合も、先の例と同じであり、租税と地代が一体化したものである。実際には、幕藩体制のもと、藩領や旗本領が残り、それらが領主として百姓から年貢・諸役を徴収した。だが、それらは公方の代理として行ったので、農民が領主に納めた年貢・諸役も、大土地所有者への地代ではなく、租税と地代が融合されたものであった。だからこそ、農民の年貢の負担割合を、四公六民とか五公五民と称したのである。公とは領主取分であった。この場合、直接生産者である農民は、領民・良民であり、農奴ではない、と考えるべきである。近世の農民は古代のそれと比べれば、小経営的生産の担い手として成熟しており、土地所有に強い権利をもっていたと思われ、かつ、年貢・諸役を村請するほどの自治能力も有していた。その点において、封建社会の農民像に近いともいえる。だが、江戸期の農村支配は、天領においても、藩領においても、奉行・代官による支配であり、一般の武士は城下に集住し、在地との関わりを失っている。この点においては、封建社会と呼ぶにはかなり集権化されていると考えられる。さらにもう一つ、土地私有について。江戸期の田畑永代売買禁止令(1643年)のもとにおいても、様々な手段を駆使して土地の譲渡は行われ、しかも幕末にかけ拡大し続けたこと、小作農民が地主に納める地代は領主への年貢も含まれていたこと、それゆえ小作農民の手元に残る取分(作徳)は、収穫物の三分之一程度であったといわれている。
 では、なぜ、野呂は「地代と租税の一致」をもって、明治国家における絶対主義の物質的基礎に関する議論の支えとしたのであろうか。上述のように、野呂はすでに、『発達史』第三編において、明治国家による地租改正は、その近代的な装いにもかかわらず、封建地代の廃除ではないこと、地租改正によって、「事実上、唯、封建的土地領有者への生産物地代(作物貢租)が、今や唯一最高の独占的土地領有者たる国家への貨幣地代(金納地租)に転化されたに過ぎぬ」(p.187)と言い切っている。
 地租改正など一連の法改正によって、長い間農民が耕作し続けてきた土地は個々の農民の所有として法的に認められたかもしれない。また身分制度が廃されたため、土地を売却し離農することも自由となった。だが、農民の負担が軽減されたわけではない。むしろ、逆であった。地租はほぼ幕末の年貢なみに制定されたため、農民の負担は変わらなかった。当時の政府にとって主要な歳入は農業部門からであり、それゆえ、近代化を急ぐ政府は、年貢に相当する負担を農民に強いるほかなかったといえる。それ以上に問題なのは地租の金納化であった。租税の金納化はつねに危うさをもっている。というのも、貨幣が潤沢にいきわたっていない社会における租税の金納化は、必要以上の負担を農民に強いるものだからである。租税金納化以後の中国歴代王朝のように、農民は折々の貨幣不足に悩まされることになる。一般には、収穫期に主穀の価格は低下するが、本来手元に余裕のない農民はその時期に主穀を売る以外にない。もし、穀物地租であれば、主穀の官衙(倉庫)への搬送といった負担はあるにせよ、価格低下に悩まされることはない。また、地租が定額であることも、農民を苦しめた。それ以前の藩領や旗本領では、収穫前に検見が行われ、不作や凶作に際しては、けっして十分ではなかったが、年貢の軽減がはかられるのが常であった。武士層全体が農民の上納に依存していただけに、年貢の取り立てが厳しく行われたのは事実であるが、同時に、農民に依拠している以上、農民の窮乏化は、農政だけではなく、藩政を揺るがす問題であった。とくに小藩においては、藩政にとって死活問題であり、それゆえ農民の救済も真剣に取り組まざるをえなかった(増川宏一&北村六合光『小さな藩の軌跡 伊予小松藩会所日記を読む』角川書店 Kindle版 2016)。
 だが、地租は不作であっても軽減されなかった。そして、松方デフレの到来が農民たちの窮状にとどめを刺すことになった。デフレによる穀価の低下は農民たちを高利貸の餌食にさせ、デフレが長期化するなか、抵当となった農地は次々に地主や高利貸(そして銀行)の手元に落ちていった。幕末から明治初年にかけての時期、30%ほどであった小作率は、この時期一挙に上昇し、ほぼ農地の50%弱が小作地となった。これは半分の農民が小作となったということではない。地主よりも小作民の方がはるかに多く、自作農でも小作地を持つものが多かったことを考えれば、農民の多数は小作か部分小作かであったといえる。また、大地主ほど不在化する傾向があったので、小作化、即ち地主制の問題は、農村全体の問題でもあった。
 当時、政府は地租を3%から2.5%へ下げ、その他おざなりな対処をしたほか、それ以外の抜本的な救済をはかろうとはしなかった。おそらく、近代欧米社会を見学した経験から、政府首脳は、近代化や工業化に際し、農民の土地喪失と離農、農業から他の産業への人口移動、農村から都市への人口移動を当然のものとみなし、日本においてもそれが起るものと予料していたのであろう。だが、近代初期の農業以外に就業の機会を見いだせない社会においては、農民たちは田畑を手放しても、農村に留まるほかなく、小作あるいは農業労働者として農業を続ける以外になかった。結局、それは土地飢餓を生み、小作地をめぐる競争を招くと同時に、小作料上昇への圧力となった。
 明治中期以後、諸産業の興起に従い、国家歳入における地租の割合が次第に低下していく。また、都市化・工業化にともなう穀価上昇により、地主の地租負担感は軽減されていく。だが、それらの恩恵を受けたのは地主層のみであった。小作より地主への上納、つまり地代は相変わらず作物(主穀)によって支払われた。地主たちは地租負担が軽減されたにもかかわらず、それに応じて地代を下げようとはしなかった。その差額は当然地主のものとなった。こうして、近代日本における支配階級の一翼として地主層が創出されていく。それはちょうど、旧武士層の没落に踵を接して生じており、政府にとって、旧武士層に代る地主層の藩屏化といえるものであった。実際には地租改正によっても、松方デフレによっても、富農や在郷地主はダメージを受けており、それが、彼らが没落武士と同じく民権運動の一翼を担う大きな要因ともなっていた。だが、帝国議会開設が決定的になるや、制限選挙であり、選挙権・被選挙権ともに、地主が多数を有する以上、議会(衆議院)が地主議会となることは明かであり、地主層の体制内化は完了したといってよい。
 これらのプロセスを、「地代と租税の一致」の一節をもとにふり返ってみよう。明治国家の担い手たち、政府首脳が当初、近代化のための財源となしえたのは、農業部門とりわけ旧時代の「封建地代」と呼ばれる部分、つまり年貢であった。農民が負担する年貢(および諸役)が、地代と租税が一体となったものであったことは上述した。それを継承した地租もまた単なる租税ではなく、租税+地代であった(さらにいえば、この年貢+諸役は、維新以後、地租ばかりでなく、他の諸税や兵役までも含めて、全体として、様々な負担の形態に転換されたと考えられる)。さらにいえば、この租税+地代を国家全体の歳出においてどのように使うかは、国家意志の担い手の判断次第であった。新政府たる所以が日本の近代化である以上その施策のためにそれを投ずるのは当然であった。殖産興業に代表されるこの種の近代化政策は、単に幾つか近代産業の育成をもたらしただけではない。富国強兵の一環としての建軍および軍需産業創出と相まって、産業ブルジョアジーの形成を促すともに、それに伴う専制支配階級のブルジョア化をももたらす結果となる。
 それと同時に、政府当局は武士層に代る新たな支持層を政府の周りに構築しなければならなかった。皇室+貴族+政府要員(官吏)だけでは安定した統治を実現できないことは明かであった。幕藩体制においては人口の7%とか一割とかを占める武士層がその役割を果たしていた。だが、武士層は封建身分の廃止と秩禄処分によって没落し、且つ、一連の士族の反乱や不平士族の自由民権運動への合流など、すでに藩屏たりえず、政府はそれに代る支持層=藩屏を新たに見つける必要にかられていた。ほぼ同じ時期、地租が次第に軽減され、本来の租税に近づくにつれ、租税+地代における地代分が、地主のもとに残ることになったが、これを政府の手によって地主のもとに移されることになったと考えれば、地主層の形成は藩屏の創出ということになるであろう。
 以上、明治初年の地租改正を含む一連の社会変革は、近代的な土地制度、財産制度をもたらしたはずにもかかわらず、年貢(生産物地代)=封建地代が、金納地租に置き換えられただけのものとする野呂の認識は、次の結論を生むことになった。
 廃藩置県・版籍奉還など一連の変革にもかかわらず「封建諸侯の土地領有権は、実質的には、「皇土」の名において、そのまま明治政府の下に統一的に継承せられたにすぎ」(p.285)ず、「政治的地位」(1927)が言うような、「封建制農業の土地制度の撤廃」にはならなかったし、従って、絶対主義の物質的基礎の消滅ももたらさなかった」、と。
 「たしかに、明治維新の変革によって、土地の純封建的領有関係は、それに付随せる諸制限と共に、一応廃除せられた。とはいえ、この事は、直ちに氏の言う如く、「封建的絶対主義の基たる封建制農業の土地制度を撤廃し」たことを意味するのではない。それは、単に純封建的土地領有関係の廃除を、即ち幕府三百諸侯による純封建的土地領有関係を撤廃して、それに代うに絶対的専制君主の主導の下への統一的土地領有を以ってしたに過ぎぬ」(pp.292-293)。
 そして、このパラグラフの直後に先の「地代と租税の一致」の一節が来るのである。
 
4. いわゆる「経済外的強制」の理解について
 明治国家は、近代的な見かけ(近代的法制度、財産制度の成立)にもかかわらず、その収取のシステムは過去を色濃く引き継いでいる。この近代的な装いとアンシアン・レジーム(旧社会)からの収取システムの継承との間にある矛盾、その秘密を解き明かすのが、先の「地代と租税の一致」に関するパラグラフなのである。近代法を施行し、近代的な財産制度を成立させた国家における「最高地主としての国家」という規定は、誤解を生みやすく、実際にも大いに物議をかもすものであったが、野呂はあえてそれをやったのである。おそらく、「アジア的生産様式に特徴づけられた封建制」といった規定を前面におし出す方が、無難であったと思う。ここでは、ネーミングに問題よりも、それが意図する、明治国家の収取システムの構造の解明の方が重要であると考える。
 そうしてみると、講座派特有の論点である経済外的強制の強調もまた、この視点から理解しうるはずである。たとえば、講座派は明治以降の農業の封建的な性格として、全剰余を吸上げ労賃に食い込む高率の地代、地主による小作の鎌止め、立毛刈りとり方の禁止、小作株の取上など経済外的強制の存在を挙げる。
だが、私有財産制度のもとでの地代未納者に対する小作株の取上は、封建社会特有のものとはいえず、経済外的というよりも経済的なものであり、むしろ近代的といってもよいものである。また、国家が地代の上納を小作農民に強要したのも、地主の地租納入が滞れば、歳入に穴をあけることになるからであり、必ずしも封建的であるとはいえないであろう。これらを直接生産者に対する封建的な経済外強制であるとみなすのは、当時の小作農民にとっては、搾取強化であるので、その点、心情的には理解しうるが、やはり疑問である。
 明治以降、その形成を促進された地主層は、アジア的国家の収取システムのもと形成された。それは同時に、膨大な小作農民を生み出し、同じく明治以降生れた都市貧民とともに、産業発展にともなう繁栄の外に置かれることになった。膨大な小作農民の誕生と地主層の形成は表裏のプロセスによって生れた。犠牲を伴いつつ生れたその地主層を国家は藩屏として組み込んだということが、敗戦のその日まで、近代日本国家に原罪を負わせることになったといえる。
 なぜ、原罪と呼ぶのか、例を挙げてみよう。戦時中(太平洋戦争中)、食糧管理制度を施行した政府は、小作保護の為、地主・小作の間に介在し、小作から直接供出させるようにして、小作からの供出米を高く(地代は政府から地主へ所定の額を支払う)、地主からの供出米をやすく買い上げるようにした。革新官僚らの念願であった地主統制策の一環でもあった。銃後を案ずる出征兵士の不安を少しでも取り除くことがこの政策の主旨でもあった。地主の子でも、小作の子でも、戦場では同じ兵士であり、当然、小作出身の兵士の方がずっと多かったからである。
 つまり、国家というものはやろうと思えばこのぐらいのことはできるのである。松方デフレの始まった時、たとえば、金納地租を一時的に生産物地租に変更することもできたはずである。そうすれば、少なくとも金納地租を払えず、高利貸の餌食になるものを少なくすることができたであろう。戦時期の食糧供出は、方法としては年貢の供出と同じであった。農産物を地租として受け取る税務当局にとっては大きな手間であり、集荷された主穀を市場に売り換金しなければならなかったので―実際には政商が代行することになったであろうが―、手続きの煩雑さのほか、歳入の多寡は市場に左右されることになった。だが、幕末はおよばず明治初年まで、このシステムで幕府も各藩も運営されていたのであり、とくに幕府は全土の四分の一を天領としている以上、幕僚たちはそのシステムに通じていたはずであった。また、在地においては、村請を慣行としていたので、庄屋を中心として、年貢を計算し集荷し、城下に搬送することに慣れていた。このシステムが廃されてから十余年が経っていたが、まだその経験を生かすことは充分に可能だったはずであった。だが、政府はそうしなかった。デフレのなりゆきにまかせたのである。この、やれるのに敢えてやらなかった、というのがその後の歴史への、原罪を形づくることになったと考えている。
 多分、そのような施策を講じたとしても、長いスパンを考えれば、農民層の分解は免れ難かったであろう。だが、変化が急激にやってくるのと緩慢に進むことの間には、大きな相違がある。とくに、巻き込まれた当事者にとってはそうである。小作(地主制)の蔓延こそ農村の窮乏化を決定づけ、結局、国家をして対外進出・植民政策を採らしめる大きな要因となったことを考えれば、その罪深さは到底無視し得ない。
 思えば、明治国家は江戸期の諸藩ほど個々の農民の窮状に関心をもたなかった、といえる。明治期の発展モデルは後発資本主義国家のそれであった。農民の窮乏化、そして離農、農村から都市への移動は、当然のことであった。それに比し、1930年代に始まる十五年戦争期においては次第に、私的営利活動よりも公益を優先させる(と称する)国家社会主義モデルが前面に出てくることになった。ただ、このモデルは、後発資本主義モデルよりもさらにアジア的社会に適合的であった。そして、野呂『発達史』におけるアジア的社会論―日本もマルクスのいうアジア的社会であるという認識―は、その転換点において書かれたのである。その点において、その後の歴史の予兆を深く感じ取っていたといえる。
 再度、話を戻すならば、野呂『発達史』第四編の理解から、講座派が強調する種々の「経済外的強制」なるものは、明治以後のトータルな収取システムにおける現実の収取の一コマであり、その一コマが封建的か近代的かの区別よりも、そのトータルな収取システムが近代的であるというより、アジア的社会に根差したものであると考える方が合理的であろう。
 当時、野呂は、敢えてそのような問いかけをすることはなかった。また、したくともできなかったであろう。野呂は、「所謂アジア的生産様式」に特徴づけられたわが国の封建制度(p.303)という言葉でしか、そのアジア的社会論を述べることはなかったのである。
 では、野呂は、その半封建論―講座派の現状認識における半封建制論―にアジア的生産様式論を利用しただけだったのだろうか。実は筆者は、これまでそのように考えていた。だが、この「地代と租税の一致」の一節を含む、明治国家の収取システムの解剖から、野呂のアジア的社会論はアジア的生産様式論を利用したにすぎないというよりも、もっと深い意味合いを含むと考えるようになっている。
 本稿は野呂『発達史』第四編「日本における土地所有関係の特質」とアジア的生産様式論争との関わりについて述べるつもりであったが、その入り口で紙数を費やしてしまった。残念ながら、次回に送りたい。



発達史286-7頁(岩波書店版)
(注1)1930年鉄塔書院版と1935年岩波書店版の違い


発達史286-7頁(鉄塔書院版)


発達史310-1頁(岩波書店版)

発達史310-1頁(鉄塔書院版)


(注2) 猪俣や野呂をめぐる、当時の革命路線をめぐる様々な争点、たとえば「二七年テーゼ」への対応の相違、あるいは一段階革命論か二段階革命論か、などについて、ここで言及することはできない。拙稿「野呂栄太郎とアジア的生産様式論」(『明治大学教養論集』№530)では、それらの点について、時系列に沿って少し説明を加えておいたので、興味のある方は、それを参照していただきたい。