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『阿Q正伝』表紙 著者 魯迅 挿絵 豊子ト
責任編集 陸哨林 装幀 王偉
上海書店出版社 1999年1月出版 |
◇ ◇ ◇
こおろぎの相撲(すもう)のビデオをみていて、いらいらすることがあった。はやく勝負(しょうぶ)をつけてほしいのに、なかなかとりくもうとしない。
あるとき、ひらめいた。
これが阿Qと小Dのたたかいなのだ、と。
阿Qは魯迅(ろじん)の小説、『阿Q正伝』の主人公である。路上で小Dとであい、とっくみあいのケンカをする。
阿Qはひとに雇われて、その賃銀でくらしをたてている。農村地帯の小さな町なので、まいにち雇われ仕事があるわけではないが、かつがつ食べることができた。それがバッタリ仕事がもらえなくなった。しらべると、ドンという男に仕事をとられていることがわかった。ドンのかしら文字はD、阿Qより年下なので作者は小Dとよんでいる。
阿Qは憎い商売がたきの辮髪(べんぱつ)をつかみ、ひっぱりまわそうとした。そうはさせじと、小Dは辮髪のねもとをつかんだ。小Dの辮髪をつかんだものの、このところろくに食べていない阿Qは力がつづかない。小Dに自分の辮髪をつかまれ、やはりねもとをつかんで防禦するよりほかはなかった。こうして、二人は相手の辮髪と自分の辮髪をつかんだまま、じっとしていた。半時間たった。
二人の影が塀にうつったのだ。
やじ馬がよってきた。
「よせ、よせ」と声をかける。「好了! 好了!」(ハオラ、ハオラ)。
「好」には、たっぷり、という意味があるから、これは、もういいだろう、よしな、とケンカをとめる意味があるが、「好! 好!」(ハオ、ハオ)と叫ぶものもいた。これは、 「もっとやれ、やれ」という意味になる。
「好、 好、」とやじ馬は叫んだ。ケンカをやめろといっているのか、ほめているのか、けしかけて
いるのか、わからなかった。
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たがいに相手に辮髪をにぎられているので、二人は進むことも、しりぞくこともできない。
阿Qが三歩すすめば小Dは三歩しりぞき、小Dが三歩すすめば阿Qは三歩しりぞき、そしてまた時間がすぎた。
あたまから湯気(ゆげ)がたち、ひたいから、汗がながれた。
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湯気の原文は「煙」であるが、中国の古典詩で、「煙」というとき、霞(かすみ)や靄(もや)も指すから、湯気と訳しても誤訳とはいえないだろう。
阿Qは手を放した。同じ瞬間、小Dも手をはなし、それぞれ、見物人をおしのけて、「おぼえていろ」とお互いに捨てぜりふを残し、たち去った。
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このケンカこそ、こおろぎの相撲そのもので、私の手もとにあるネズミのヒゲは、つまりはやしたてるやじ馬なのだ。
あるいは、わたしじしん、やじ馬なのだ。
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豊子トえがく 上海書店版『阿Q正伝』より
挿図にしるすのは小説の一部
−「在錢家粉壇上映出一個藍色的虹形、至於半點鐘之久了。」
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日雇いでくらしている阿Qという男の話をつづったのが『阿Q正伝』である。
「ア・クエイ」とひとからよばれていた。クエイが「桂」か「貴」かわからない。それでかしら文字を英文であらわして、「阿Q」としるすことになった。阿はしたしみをあらわし、日本で女の子を「お花」「お竹」とよぶのは、この阿からきたという。
阿Qは「革命」の波にのみこまれて、強盗の犯人とされ、銃殺される。
この「革命」は「辛亥(しんがい)革命」で、「辛亥」というのはこのとしの「えと」(干支)だった。
西暦でいうと1911年10月10日。武昌(ウーチャン、ぶしょう)に駐屯していた軍隊が叛乱をおこし、これがきっかけで清朝が倒れた。これを「辛亥革命」というのである。
清朝は女眞族で、いまの東北で建国(1616)、はじめは国号を「後金」と称していた。
のち、「清」とあらためた(1636)。
山海関から中国本部に入って(1644)、このとしから「辛亥革命」まで、清朝は268年つづいた。
ちなみに日本の江戸幕府は徳川家康が征夷大将軍に任命されて(1603)、徳川慶喜が大政奉還する(1868)まで265年つづいた。
武昌蜂起に至るまでに一揆や騒乱や暗殺など、事件がつぎつぎに発生している。
魯迅は「辛亥革命」を経験した。
魯迅はペンネームで本名は周樹人。浙江(せっこう)省、紹興(しょうこう)のひと。1881年に生まれた。わが明治14年である。清朝の基盤はゆるみつつあったが、改革もすすめられていて、西洋式の陸軍、海軍の編成がはじまっていた。南京には海軍学校、それに付属して鉱山鉄道学校ができた。周樹人はこの鉱山鉄道学校に入学した。
卒業後、日本に官費留学(1902〜09)。東京で日本語を学んだあと、仙台医学専門学校に進学、二学年に進級したが、退学した。医専在学中に日露戦争があった。
帰国して中学教師をへて教育部の役人になり、北京に在住した。弾圧をうけて避難、厦門、広州にゆき、ついで上海でもっぱら執筆にうちこんだ。1936年(昭和11年)死去。享年55。
ここでとりあげた『阿Q正伝』は1921年年末から新聞に連載、22年2月に完結した。このときのペンネームは巴人(パ・レン)。当時41歳だった。
周樹人は日本留学中、中国人の民族的性格に関心をもっていた。そのころ日本で国民性論議がさかんだったので、これに刺激されたこともあろうが、どうすればかれらが諸外国の侵略、圧力に抵抗できるかという課題、はひろく中国の知識人をとらえていたのである。
満州人の清王朝を倒すことが目標としてかかげられた。「革命」である。清朝はこれを弾圧したから、日本に脱出して、「革命」の道をさぐろうとする知識人も少なくなかった。かれらがいわゆる革命家である。
日本に留学した革命家のあいだには、「革命」の空気が渦をまいていた。しかし流行の思想には、うわついた空気が免(まぬが)れない。
周樹人はこうした軽佻浮薄(けいちょう・ふはく)を否定し、根本的には民族的性格を変えることが必要だと考え、そのために外国の文学を紹介することにうちこんだ。
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| 豊子トえがく 上海書店版『阿Q正伝』より |
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辛亥革命が勃発したのは帰国後で、このとき周樹人は杭州の中学の教員をしていた。軍事訓練用の銃や短剣を学生に配布し、市内をねり歩いている。
「革命」を支持し、市内に無用な騒乱が発生するのを防止しようとしたのだった。
「辛亥革命」のあと周樹人は紹興の師範学校校長に任命されたが、やがて中華民国の政府の教育部に招かれ南京に赴任した。政府が南京から北京に移転したのにともない、かれも北京に移り、北京大学を中心にはじまった新文化運動の一役をになうことになるのである。
小説ばかりでなく、現代詩(散文詩)もつくった。そのなかに「復讐」と題する一篇があり、わたしはなかなかその意図をつかみかねていたが、こおろぎの相撲をみているうちに、この詩のかくされた意図がひらめいた。こおろぎは『阿Q正伝』の阿Qと小Dのケンカに、そして「復讐」につながるのである。
「復讐」がつくられたのは、詩の末尾にしるされているところでは1924年12月20日。
詩にえがかれているのは、広い原野にあって二人が睨みあっている、という情景である。
魯迅がべつの機会に説明しているところでは、二人は男と女である。それで、このたびは原文の二人を、あえて男と女と訳した。
睨みあって、どうするのか。
たがいに抱擁しあうため、そして、たがいに殺戮(さつりく)しあうため、である。
ところが、抱擁し殺戮しあうために睨(にら)みあっていながら、この男と女は抱擁せず、相手を殺戮しない。
なぜか。
おもしろい活劇がみられるぞと期待して集まってきたやじ馬連中に、しかえしをするためである。
期待どおりの活劇をみせない。
それが男と女二人の復讐だった。詩の題も「復讐」とされている。
古典文学では、詩が主流だった中国に、現代詩が生まれた。格律の約束のない自由詩はまさに自由だったが、口語そのものがまだ不安定で、いわゆる「標準語」をきめようにもきめられなかった。魯迅はその開拓者だった。
この詩には仙台医学専門学校でえたかれの医学的知識がみられる。
抒情的な描写のかわりに医学的記述をもってきている。斬新(ざんしん)である。
まず、前半をよんでみよう。はじめのほう「一ミリ半」の原文は「半分」で三ミリの半分である。おそらく医専ではメートル法で講義されていただろうが、読者にはメートル法の知識がないのを考慮したのだろう。
復讐
人間の皮膚は、厚さは一ミリ半もない。そのしたには、槐(えんじゅ)につく毛虫がぎっしりと壁をはいまわっているような、密着した血管がある。血管には真紅の熱い血がながれ、体温を発散している。
そこで、必死によりそって、おたがいの体温をもって、挑発(ちょうはつ)し、煽動(せんどう)し、牽引(けんいん)し、接吻し、抱擁(ほうよう)し、酩酊(めいてい)し、生命の大歓喜をえようとする。
しかしながら、鋭(するど)い刃(やいば)でぐさりと突けば、刃は桃の花のように赤く、うすい皮膚を刺しとおし、真紅の熱い血が矢のようにとぶ。体温は殺戮者(さつりくしゃ)にふりそそぐ。
ついで、氷のようにつめたい呼吸が、血の気を失った唇(くちびる)を示し、刺された人間は気がとおくなりながらも、飛揚する生命の極致である大歓喜を手にいれる。殺戮者じしんは、永遠に飛揚する生命の極致である大歓喜にひたる。
そうであるからこそ、男と女は一糸もまとわず、刃をにぎり、広漠たる原野にあってにらみあう。
この男と女は、いまにも、抱擁し、殺戮しようとするのだ・・・・・・
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−−ここまでは前段で、裸体でむかいあう二人(男と女)をのべている。かれらは対立し、殺しあう。それは生命の大歓喜にひたるためだというのである。
「生命の酩酊(めいてい)である大歓喜」の原文は「生命的沈酣的大歓喜」。
「生命の飛揚の極致の大歓喜」の原文は「生命飛揚的極致的大歓喜」。この表現は三度出現。
「生命の大歓喜」がキーワードであるが、これがけっきょくなにを意味するかは、詩の描写だけではわからない。
詩の中段ではやじ馬が登場する。
四方からやじ馬がかけつけてくる。槐につく毛虫がびっしりと壁をはうように。蟻のむれが魚の骨をひきずるように。
上等な服装で、手にはなにももっていない。にもかかわらず、四方からかつけてきて、必死で首をのばし、男と女の抱擁と殺戮の現場をたのしもうとする。はやくも、舌に味わう汗の味、あるいは味わう血の味を、やじ馬は予感している。
しかしながら、男と女は、にらみあったままだ。
広漠たる原野にあって、全身に一糸もまとわず、刃をにぎり、抱擁しようとも、殺戮しようともしない。そればかりか、抱擁する気配も、殺戮する気配も、まるでみせない。
男と女は、このようにして、いつまでもじっと、にらみあっている。まるみをおびた肉体が、生気を失おうとしているにもかかわらず、抱擁し殺戮する気配すらみせない。
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−−ここでは二人の断乎たる意志がのべられている。ただし作者が断定しているにすぎないので、読者はなるほど、そういうものかとうけとらざるをえない。
ついで後段。「無聊」の「聊」には「いささか」という訓があるように、「わずかではあるが」という気分で、なにが「わずかはあるがか」というと、「おもしろいこと」である。「無聊」で「わずかなおもしろいこともない」という意味になる。日本の古典ではあるが『徒然草』(つれづれぐさ)の「つれづれなるがままに」の「つれづれ」は「無聊」であること、である。そこで「退屈(たいくつ)」という訳をあてた。
かくてやじ馬は退屈する。
退屈は毛穴にもぐりこむようだ。
退屈はじぶんの毛穴をぬけでて、原野をはいまわり、あげくのはて、ほかの連中の毛穴にもぐりこむようだ。やがて喉(のど)も、舌も、からからにかわき、首すじも、つかれた。
ついには顔と顔をみあわせ、ゆっくりと散ってゆく。からからになって、自分は生きているのか、死んでいるのか、わからない。
こうして広漠たる原野だけが残る。男と女は全身に一糸まとわず、手に刃をにぎって、ひからびて立っている。
死人の眼で、からからにかわいたやじ馬連中をながめ、たのしみ、飛揚する生命の極致の大歓喜に永遠にひたっている。
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(「復讐」 了)
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魯迅は民衆について、こうのべている。
「民衆−とりわけ中国の−は永遠に芝居の観客です。犠牲が登場して意気さかんだとかれらは悲壮劇を見物し、死をおそれていると滑稽劇を見物する」 (「ノラは家出してどうなったか」1923)
民衆は傍観者だった。
「社会に傍観者が多いのを憎んで「復讐」第一篇をつくった」(『野草』英訳本序1924」
こういう傍観者にたいしては、先覚者は活躍をしてみせる必要はない、それが民衆にたいする復讐だ、という気もちが、上に引用した文章に、にじんでいる。
すなわち傍観者批判のために、この詩がつくられたのである。
作者じしんがいうのだから、みとめてよい。というより、みとめるよりほかはない。しかしながら、わたしはこのほかにも、これと表裏一体となって、魯迅のこの詩に托した意図があるようにおもう。
それは演技しないということである。
人間には演技するひとと、演技を見物するひとの二種類があって、民衆は、見物するだけだというのが、かれの民衆観だった。
だがこの民衆観は、民衆によびかける指導者にも、むけられている。
民衆をよろこばせる演技をしないこと。
これが冷徹ともいえる魯迅の眼光である。
同郷の留学生に、秋瑾(しゅう・きん)がいた。彼女はいわば封建的な結婚をし、子供までもうけたが、家庭をすてて日本に留学し、東京で学んでいた。革命家と交際し、帰国後じっさい運動に従事して清朝の役人に逮捕され、紹興市内の刑場で死刑になる。
東京では魯迅ともゆききした。
その秋瑾について、魯迅はつぎのようにしるしている。
「同郷の秋瑾姑娘(クーニァン。尊敬の”さん”にあたる)が、このパチパチという拍手によって、拍殺(はくさつ)されたことを想いだした。」 (「通信」1927)
秋瑾は東京でよく革命的な集会に出席し、演説をおこない、さかんな拍手をあびたという。ときには短刀を持参し、グサッと壇上につきたてるという演技もみせた。
そして、うけた拍手喝采にこたえるべく、「革命」の道をひたすらつっぱしり、ついに刑死した。魯迅は革命家ではない、べつの一面を彼女にみいだし、それが失われたことを惜しんでいたのかもしれない。
この詩の「二人」は、まえにものべたように、魯迅の説明によれば「男と女」、原文「一男一女」である。
のちになって、魯迅は友人にあてた手紙でこうのべている。
「かつて書いた。男と女が原野のなかに刀をにぎってむかいあうと、必ずや事件が起き、無聊がなぐさめられると思って、無聊の人があらそって赴いても、この男女はいささかも動かず、無聊の人をしてなお無聊なるまま死に至らしめる。題して「復讐」といったのもこの意味です。だがこれまた憤激の談にすぎず、ふたりは愛しあおうが、殺しあおうが、欲するところをおこなうのが是(ぜ)であります」(書簡・鄭振鐸宛・1933)
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この男は魯迅じしん、女は許広平かと、わたしは想像したが、許がはじめて魯迅を訪問したのは作詩の翌年、1925年4月12日である。したがって、この詩における「男と女」は架空の男と女だった。
抱擁と殺戮を二つならべるというのは、異常といえば異常である。
しかし、これがまったく作者の想像だったとすると、わかるような気もする。
躊躇停滞(ちゅうちょ・ていたい)、優柔不断(ゆうじゅう・ふだん)がこおろぎの「革命」だとすれば、この道を魯迅はえらんだということになろう。
それでは、この対極にある秋瑾の「革命」はどういうものだったのか。
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