◇漢詩と禹域
とりあえず、一枚の写真(をかかげた表紙)をごらんにいれよう。
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| 『図書』1989年8月号表紙 岩波書店 |
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ものすごい光景である。
「人」が「人」の字をつくっている。
人が多い、のだ。
「人多(レン ドゥオ)」
と、おもわず声がでよう。
わざわざ説明するまでもないが、岩波書店発行の『図書』平成元年(1989年)8月号の表紙である。
表紙裏ページの濱谷浩の解説によると、写真は「中華人民共和国広州」での歩道橋開通式の光景で、撮影は陳勇鵬(ちん・ゆうほう)、1987年。
「人の歴史」と題する三枚組の二枚目。東京で中国報道機関7社が共催した「巨難の歴史」と題する写真展で展示された三枚組の一枚で、一枚目は初公開のヌード写真、三枚目が情報化時代を皮肉った新聞をまとった女の体だという。三枚目の写真は解説の上部にかかげられている。
◇中国とはなにか。
これは、われわれの共通の疑問であり、課題であるが、とりあえずこの写真を見せて、「人多」と答えるよりほかはない、というのが、ぎりぎりのわたしの答えである。
この疑問と回答のあいだをさまよっていて、この「人の字の写真」をおもいだした。
キリヌキしていなかったのに、キリヌキを探そうと思っていたところ、奇蹟(きせき)のように、この一冊が、本棚から出現したのだった。
◇ 人口の実態
それでは、人口の実態とはどういうものか。
すでに、ことしの『中国情報ハンドブック〔2006年版〕』が発売されているのでこれを参照することにしよう。
これによると、現在の総人口は、13億756万人。
年間増加率は平均800万人余(242ページ)。高齢化社会になった。65歳以上の実数は1億をこえる。ぜんたいの7.7%。
男女比がアンバランスで男性が多い。
都市化が急速に進行し、省内、および省間で大量の人口移動がみられる。
また、10年ごとの人口増加を表示すると、つぎのようである(248ページ参照)。
| 年 |
総人口(億人) |
人口老齢化程度(%) |
| 2006 |
13.27 |
7.77 |
| 2010 |
13.61 |
8.29 |
| 2020 |
14.34 |
11.98 |
| 2030 |
14.51 |
16.68 |
| 2040 |
14.35 |
22.56 |
| 2050 |
13.76 |
24.41 |
・中国情報ハンドブック〔2006年版〕より抽出。
・総人口はTFR 1.7とした。TFRとは1人の女性が一生のあいだに生む子供の
平均数。
・人口の老齢化程度もTFR 1.7とした。 |
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すなわち、老人人口の増加率がふえつつある。
わたしは、まいとしの人口増加は1000万、あるいは1300万だろうと考えていた。しかし統計によれば、800万以上の増加数で、想定したより少ない。
それにしても、これだけの増加する人口に応じて食糧を増産できるかどうか、輸入にたよるとすれば、その支払いのための外貨を獲得しなければならない。外貨獲得のためには輸出を振興しなければならない。輸出振興のためには生産をあげる必要があり、そのためにはエネルギー(電力など)がじゅうぶんに供給されなけらばならない。エネルギー供給のためには・・・・。
ようするに、経済ぜんたいが、円滑に循環しなければならない。
そのような循環が可能だろうか。
プラス面でみれば、中国経済は世界経済の牽引力(けんいんりょく)になっている。
東部の沿岸地帯の生活水準は、実感的にはほとんど日本にかわらない。
人口の増加は社会に負担がかかるが、あたらしい人材の社会参加は活気をもたらす。
◇「中国」から「禹域」へ
さいきんになって、冒頭の写真を思いだしたのは、人口問題が気がかりになったからである。いっぽう、この3、4年、漢詩にかかりっきりになっていたことにも由来していよう。
漢詩というと、頼山陽(らい・さんよう)など、日本の漢詩を意味することが多いが、わたしはもっぱら中国の詩を集めて解説をくわえたのだった。
ところがそうなると、これらの総称として「中国」という呼び方に抵抗を感じ、「禹域」と呼ぶことにした。
わたしはまいとし、蒼蒼社刊行の『中国情報ハンドブック』、『中国情報源』に執筆、提言している。「中国」の動向についても、把握しようと、つとめている。
「中国」という用語について違和感をもってはいない。
しかし、さいきん、やたら「中国」々々とテレビのワイドショーなどでもいわれ、それが一種、偏見(へんけん)をおびた口調(くちょう)なのが、気になった。
「ガイコクのイイナリになりません」と発言する(ミエを切る)テレビのワイドショーのコメンテーターもいて、こうした風潮は、盧溝橋(ろこうきょう)事件前後をおもわせた。
「暴支膺懲(ぼうしようちょう)」が当時のマスコミの合言葉(あいことば)だった。「暴戻」(ぼうれい)なる「支那(しな)」をこらしめなければならない、というのだった。「暴戻」も「膺懲」もこのとき、新聞紙上にさかんにつかわれたが、ふだんはみかけない用語だった。
どのように議論しようが勝手であるが、そうした渦巻(うずま)きに、わたしはまきこまれたくなかった。
詩(し)や詞(ツー)の世界にはいると、そうした、渦巻く中国とは別箇なひろがりがあって、風景とか、抒情とか、男女のものがたりがうかんできた。
それで、おおむかし、洪水を治めた「禹」(う)の名にちなみ、この大陸を「禹域(ういき)」と呼ぶことがあったのをおもいだしたのである。
「禹域」というと、われわれの住む地域の名称、「扶桑(ふそう)」がしぜんにうかんできたので、「扶桑」の詩人の詩も拙編著『岩波 漢詩紀行辞典』2006年5月刊、にいれた。
◇「禹域」とはなにか。
「中国」とは「禹域」である、という命題をたてると、「禹域」とはなにかという問いが浮上する。
「禹域」についてまずいえるのは、ながい歴史をもっている、ということだろう。
そしてつぎに、広大であるということだろう。
ただし、地図を眺めていて、思いつくのは、これは一つの生(い)き物だ、ということである。
しかし、地図上の輪郭(りんかく)に、鳥やけものをはめても、うまくいかない。
オンドリの首を東北の大興安嶺(だいこうあんれい)にあてはめて、西の方角をふりかえらせ、ふっくらと胴体の羽根をふくらませると、輪郭にうまくはまるようである。
絵のそばに、「一唱雄鶏天下白」(ひとたび雄鶏なけば天下のよあけ)という、毛沢東の詞(ツー)をかかげると、このオンドリがいきいきしてくる。
わたしはかって、ぜんたいをぶよぶよした巨大な生き物のようだと、たとえたことがある。
袋(ふくろ)のような生き物である。
この袋につまっているのが、人口なのである。
◇人――人口
人口はひとりひとりの「人」があつまったものである。
巨人な人口を形成する「人」は内側から巨大なぶよぶよした「禹域」をむさぼりくらい、くらいつづけている。
――というのが、いまから二十数年まえ、禹域、すなわち、中国について下した、わたしの診断だった。『友好は易く 理解は難し――80年代中国への透視』サイマル出版会、1980年7月。
このときの人口は9億4000万から10億2000万のあいだと推定された。
いまは、13億を突破した。
この「禹域」の実体は人口であるが、人口ばかりでなく、「地域」もまた実体である。「禹域」の全領域が「黄土」であるとはいえないが、黄土が地理的、地形的実体だったことは無視できない。
◇黄土の世界
「禹域」の世界は「黄土」の世界である。
世界四大文明の一つとしてあげられる黄河文明は黄土地帯をながれるので、河の色は黄色くにごっている。
禹が納めた洪水は、おそらく、この黄河が氾濫(はんらん)したのであろう。
古代においては、黄河はたんに「河」と称された。(同じように、長江は「江」と称された)。
これを「黄河」と称したのは、その泥の色にちなむのである。
まず黄色という色の名があって、河に名づけたのか、河をみてこの色を「黄」(ホワン)と名づけたのか、そこのところは分からないが、現実の黄河の色は、こんにちいう茶褐色で、これも、かれらは「黄」(ホワン)というから(たとえば、われわれが「茶色の靴」というのをかれらは「黄皮靴」(ホワン・ピイシエ)という)、まず現実に存在するモノから、色彩の名称が考えられたのであろう。
この黄土のひろがりに住むひとびとは、かれらの始祖を「黄帝」と称し、かれらは「黄帝の子孫」であることを誇った。
では、こうした「黄土」とは、どのようなものであるかといえば、黄砂がつもったもので、黄砂は砂漠の砂が風に吹かれ、飛んできて積ったものだということになっている。
もっぱら高原に積っているので、黄土高原と呼ばれるが、黄土層は厚さ数メートルから200メートルにたっする。
その砂は一粒がせいぜい直径0.005~0.05ミリである。この砂はタクラマカン砂漠、ゴビ砂漠から、いまから170万年前にはじまって、飛んできた。
ことしの4月17日、北京では一日に30万トンの砂が降った。
とはいえ、1平方メートルあたり20グラムで、厚さにすると、0.014ミリでしかない。このような砂ぼこりが一年四回、170万年降りつづいて、ようやく厚さは85メートルにたっするのである。(この計算は高見邦雄「黄砂は悪者か?」『上海経済交流』2006年7月号。大阪府日中経済交流協会(06)4395-1114
)
とにかく、このようにして降りつもった黄土層にひとが住みついたのある。
黄土は「土」とはいうが、じつは「砂」であり、それも、古典ではつねに「沙」と表記されてきた。水のようにサラサラしているので、サンズイ「氵」がつき、イシ「石」のつく「砂」とは区別されてきたのである。
扶桑(日本)の「土」は禹域とちがい、しめった粘土(ねんど)である。区別しなければならない。
この黄土高原は陝西(せんせい)省北部から山西(さんせい)省ぜんたいにひろがり、東の大行(たいこう)山脈をさかいに、華北平原にわたっている。
黄土高原をながれる黄河にそい、王朝のみやこ西安(げんみつにいえば黄河に合流する渭河(いが)【渭水】の河畔であるが)、洛陽、開封、安陽などがさかえた。
そこで、兵庫県の主催する「ひょうご講座」でも、わたしはしばしば、まずこの黄土、黄沙、黄土高原について語ってきた。
◇映画『黄色い大地』
そのさい、理解の一助にもと、映画『黄色い大地』のビデオを上演した。
革命の聖地、延安(えんあん)から、若い八路軍の兵士が民謡を採集するため、黄土高原の貧しい農村をおとずれ、貧しい農民の家に寄宿する。家といっても、黄土層に掘られた横穴で、その家の娘は、5キロ離れた黄河から水を汲(く)んでくるのである。
若い兵士は、延安にやってきて新しい生活を送る、若い女たちの話をする。
娘は延安にあこがれ、延安につれていってくれと頼むが、若い兵士は延安にもどって許可をえなければならないと、断る。
娘は父親の命のまま、嫁にゆく。
嫁にゆく代償として父親は結納金(ゆいのうきん)をうけとるが、これは娘の弟が嫁をむかえるとき、結納金として女の家に贈るのである。
娘はある夜、決心をして、黄河に船を漕ぎだす。
1984年製作。監督=陳凱歌(ちん・がいか)、撮影=張芸謀(ちょう・げいぼう)。くわしくは『中国映画が燃えている――「黄色い大地」から「青い凧」まで――』佐藤忠男・竹内実共著。朝日ソノラマ、1994年9月刊。
この映画はずいぶん以前に公開されたものであるが、傑作だとおもう。
この映画にかぎらず、たとえば『芙蓉鎮(ふようちん)』、『犬と女と刑老人』(原題「老人与狗」)、『紅いコーリャン』、『さらば、わが愛/覇王別姫(はおうべっき)』、『古井戸』(「老井」)など、当面する問題を発展させることのできる作品は少なくない。
◇むすび
ここでし、しめくくりをのべよう。
やはりはじめにかかげた「人」の字の群集が「禹域」とはなにか、「中国」とはなにかを暗示(もしくは「明示」)しているとおもう。
それは厖大な人口であるところの「群集」である。「群衆」を統計でとらえると、「人口」になる。しかしまた、映画の主人公になるような、ひとりひとりの「人」でもある。
その両者を、片よることなく、見守らなければならない。 |
| (2006. 8. 8/11) |
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