どういうわけか、このごろしきりに、しばらくまえの「反日」デモのことをおもいだす。
成都(せいと)、深圳(しんせん)がまず口火をきった。一昨年、平成十七年、2005年のことである。この経緯(けいい)について、わたしは『中国情報ハンドブック 2005年版』(蒼蒼社 2005年7月刊)の巻頭論文「〈反日〉デモと靖国神社参拝問題」で、いくらかくわしくのべた。
デモがあったのは4月2日。
成都ではイトー・ヨーカ堂、深圳ではジャスコがねらわれた。
その前日まで北京でひらかれていた「中国連鎖経営協会」の理事会が、閉会にあたって「日本商品排斥にかんするアピール」を採択したことと関連があろう(上記拙文、P.20)。
わたしは「アピール」の原文を入手して論文を執筆したのだったが、いまおもうと、4月1日に北京で採択されたアピールが、翌日のデモになったのは早すぎる。
デモはもっと以前に計画されていて、デモと組合せで「アピール」も準備されたとおもわれる。
デモは日本が国連の「安全保障理事会」の「常任理事国」にくわわることに反対することをうたっていた。
知られているように、理事会はアメリカ、フランス、ロシア、イギリス、中国の5カ国からなっている。これにちかく日本がくわわるだろうと、アナン国連事務総長が発言したことが、きっかけだった。
中国が反対したのは、日本のさいきんのうごきは、アジア諸国にたいする配慮が欠けている、このような国を常任理事国としてみとめるわけにいかない、という理由だった。アジア諸国にたいする配慮というのは、もっぱら小泉首相の靖国神社参拝を指していた。
靖国神社にかぎらず、日本国内のうごきに、アジア諸国への配慮に欠けるものがあったのは事実である。これはみとめなければならない。
みとめるだけでよいのか、みとめてどうするか、という問題もあるが、みとめない(あるいは、みとめていないかのようにおもわせる)行動が、小泉首相にみられたのは、これもまた事実である。
みとめると「土下坐(どげざ)」外交だという罵声もしきりだったから、小泉首相は「土下坐しない」首相をつらぬいたのである。
批判のマトは小泉首相批判へと、しぼられた。
小泉首相にマトがしぼられたのも、ゆえなしとしない。小泉首相が「靖国神社に参拝しない」と言明すれば事態(じたい)はおさまったのである。しかし、冷静に考えると、そのような言明をするはずはない。
ここまで天下の耳目(じもく)を集めた以上、ここで退(しりぞ)くのは、政治的生命を失(うしな)う。
中国は、はたして小泉首相が靖国神社参拝を中止すると期待して、そのように要求したのだろうか。中止はしないだろうが、窮地にたつと思っていたのか。
しかし、相手を窮地(きゅうち)においこんで、どのような成果があがるのか。日本国の首相を政治的失敗においこみ、首相が更迭(こうてつ)したとして、中国にとってどのような政治的業績といえるのか。
靖国神社参拝問題は、白熱的な課題ではあったが、「あと味」はわるかったとおもうのである。
イトー・ヨーカ堂やジャスコがねらわれたのも、中国現代史に出現した「日貨排斥」の運動を再燃させようとしたものだろう。そしてそれはそれなりに、「成果」をあげただろうが、なんのへんてつもない日常の商行為がある日、とつぜんに排斥されることがありうる、という教訓を日本側にあたえたことも事実だろう。
「反日」デモ以後、中国にたいし、日本に醒(さ)めた見方(みかた)がひろまった。中国にたいする親近感は急速に冷(ひ)えこんだ。「国威(こくい)」を「宣揚(せんよう)」したかもしれないが、中国は金銭的には損失をこうむったのではないだろうか。
「反日」デモを計画したひとたちが、ここまで予測していたとすれば、そのねらいはなんだったのか。ここまでは予測していなかったとすれば、かれらの政治感覚はどのような性質なのか。
つぎからつぎへと疑問が生じるのである。
去年の秋、用件があって北京にいったとき、イトー・ヨーカ堂のチラシをもらった。
以下に、そのチラシを掲載してもらって、この2007年・平成十九年正月の感想をおわりたい。
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