縄文巨大石棒の謎(第1回)

中村 公省
(東京都町田市在住)

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電子礫・蒼蒼
第79号 2017.12.22
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◎◎◎◎とは何か?

はじめに

 町田市有形文化財指定の彫刻付大形石棒(忠生遺跡出土)の謎を老人力で解いてみたいと思い立って1年、ようやく初歩的な解を得たので、『蒼蒼』の場を借りて報告することにします。報告は不定期で長期にわたり、論旨は試行錯誤すると思われますので、この第1回目で「仮説」の全体像を開示しておきます。続いて個別具体的に論じ、論証力を広げ・深め、連載を重ねていきたいと思います。読者の御教示を賜れば幸いであります。

 
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〔1〕

 忠生遺跡(A1地区)は内径10m、外径150mの範囲に分布する縄文時代の大環状集落址です。注1この縄文中期勝坂期(約5000年前)の焼失竪穴住居から写真のような遺物が発掘されたのです。

図1-1
  忠生遺跡67号竪穴住居出土の石棒、生産用具、祈祷具(忠生遺跡群発掘調査概要報告書2006.3より)。



 大形石棒は被熱大破した状態で、復元すると全長184cm、直径15-17cm、重量55.7㎏、先端部には陽刻による幾何学文が施されています。
 他に完形の打製石斧(耕作具)、石匙(皮剥ぎ)、石皿・磨石(製粉具)など生産用具が並置され、土器として大型深鉢(堅果種壺?)、とぐろ紋小型深鉢(塩壺?)と無紋浅鉢(赤漆痕があり酒器)があります。このワンセットの石棒、生産用具、祈祷具が住居の業火に晒されて以後5000年土中に眠り続けたのです。
 果たして、ここで如何なる祭祀が行われたのでしょうか?

 
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〔2〕

 熊の魂をあの世に送り届ける熊祭(イオマンテ)は有名ですが、アイヌにはまた家送りという祭祀がありました。「人死すれば、其家をも調度をも皆焼捨てて、新たに造りて住むと云」(立松懐之「東遊記」)。注2

図1-2
家送り(北方資料デジタルライブラリー「蝦夷島奇観 下26」より) 

 アイヌの考えでは万物に魂が宿っていて、タマが抜ければヒトもモノも廃物ですが、タマはあの世にいっても不滅です。この世とあの世とはなんら変わりなく、ただ上と下、左と右、昼と夜、完全と不完全がアベコベの構造になっているにすぎない。注3そこで、この世のモノをあの世に送るには、この世のものをアコベにする、即ち不完全にする・殺す・破壊する。生前の住居や調度は燃やすことによって送り、あの世でヒトが改めてこの世と変わらない生活が出来るようにするわけです。注4
 家送りに類似した遺風はヤマトの庶民の間にも活きています。注5小正月の火祭りであるトンドでは、松や注連縄を集めて小屋を作りこの小屋を焼く、火の煙とともに元日に迎えた祖霊はあの世に帰ってゆくと信じられています。お盆の門火は精霊の迎え送りで、この世を訪れた先祖をあの世から迎え・送り返す行事です。ホトケは逆さ着物や逆さ屏風に囲まれ、通夜は夕方、即ちあの世の朝に催されます。動物――例えば貝・イルカ・鰻・馬など、モノ――例えば筆・針・達磨などの御焚き上げ法要が営まれ、その塚が至る所に見出されます。
 こうした民俗遺制から類推すると、忠生遺跡で営まれた祭祀はムラオサの死去に伴う送り祭祀だったと考えられます(祭主は後継の新ムラオサ)。巨大石棒が執拗な叩打と火はねによって928もの細片と化していたのは、これこそがあの世に送るべき最重要の送りものであったことを示唆しています。石棒とワンセットの打製石斧、石匙、石皿・磨石、大型深鉢、小型深鉢と浅鉢はすべて破壊されておらず完形であったことが注目されます。これら石器・土器は送りの対象ではなく、石棒を送るための祭祀具にすぎなかった可能性大です。

 
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〔3〕

 しかし、ムラオサ(司祭者)が生前に大型石棒を使って如何なる祭祀を行っていたかは別問題です。
石棒が男性器をかたどっていることは明白ですが、この彫刻付大形石棒の先端部一周には四つの円文彫刻が施されています(図1-3)。発掘・復元者の観察によれば、「文様は鍔状の隆帯区画内に一周四つの円文と、先端部分は全周する波状文が陽刻されている」。注6
 近隣の縄文中期の環状集落址である厚木市温名沖原遺跡で出土した大型石棒にも、よく似た四つの円文が陽刻されています(図1-4)。「正面に玉抱紋風の刻紋が見られる以外は各面に円形文が配置されており、左側面と裏面の円形文は連鎖している」。注7玉抱紋(玉抱三叉文)とは勝坂期の出産を表現した土器に見られる文様で、女性の、子供が生まれてくる部分を抽象化した造形だと考えられています。
 円文は女性器をかたどっていると見なせます。
玉抱三叉文を刻印した縄文中期の石棒は他の遺跡、例えば北陸地方でも出土していますが、円文は一つないし二つです。四つ連鎖しているのは、忠生遺跡と温名沖原遺跡出土の石棒に限られていますが、これは決して偶然的な所産ではなく、極めて意図的な造形だと思われてなりません。
 男1に女4という組み合わせは、一体全体、何を意味するのでしょうか?
一夫多妻制を表しているという答えが予想されますが、それはあり得ません。何故なら、竪穴住居のスペースから推して、一住居の中には一夫一妻を基本とする家族構成しか許容し得ないからです。



図1-3
忠生遺跡67号竪穴住居出土の石棒先端部の文様展開図

図1-4
厚木市温名沖原遺跡出土の石棒先端部の文様展開図

 ここで注目すべきは忠生遺跡(A1地区)の集落構造です。忠生遺跡(A1地区)勝坂期57軒の集落は図1-5のような構造を呈しています。185土坑がある中央部土坑は墓壙域と思われ、その墓の周りを北と東南との二つの集落が取り囲んでいます。この西方は1960年代の工場建設で破壊され不明ですが、対称的にやはり二つの集落があったと推測できます。即ち、忠生遺跡は勝坂期に、墓の周りに四つの住居群を配した集落であったでありましょう。


図1-5
忠生遺跡 A1.9地点 縄文中期主要遺構分布概念図のうち勝坂期遺構分布概念図(勝坂期57軒)。185土坑のあるあたりが墓壙の原点と思われる。墓壙を取り囲む形で、北側と東南部にそれぞれ住居址が存在する。この西側は1960年代の工場建設で破壊され不明だが、対称的にやはり二つの集落址があったと推測される。なお、大形石棒が出土したのは第67号住居址。

 こうした中央に集団墓を抱く形の集落を考古学では環状集落と呼んでいます。同時期の環状集落は岩手県西田遺跡が有名ですが(図1-6)、町田市近辺の多摩ニュータウン(№107遺跡)、八王子(神谷遺跡)、神奈川県(三の丸遺跡)などでも多数発掘されています。そこでは、共通して墓壙群や竪穴住居がそれぞれ二つに区分され、それをさらに細分する「分節構造」が見られます。これは血縁関係をベースにした出自集団の区分を示していると理解されています。注8

図1-6
岩手県西田遺跡の概念図(嵐山町web博物誌より http://www.ranhaku.com/web04/c2/3_01nisida.html
(岩手県埋蔵文化財センター提供))

 また文化人類学では、明確に二つの集団に分けられている社会組織を「双分組織」と言い、その二分された各集団を「半族」と言います。レヴィ=ストロース『親族の基本構造』注9においては、二つの親族=四つの半族による社会において、配偶可能な男女と配偶禁止の男女を分別するシステムがある婚姻制が論証されています(オーストラリア・アポリジニのカリエラ婚)。そこでは男性側からすると母親の兄弟の子供(交叉従妹)との成婚だけが許されます。そして女性は男性と同居しますが、その夫婦の子供は女性の姓を受け継ぐことが義務付けられています。男性を中心にして見ると、四つの半族の間で「女性の譲渡交換」が行われるのです。この四クラス婚姻制が循環して子供から孫へと世代を経ていくと、どうでしょう、男性の周りを女性4が巡り巡る形になります。
 果たして、縄文中期東日本の環状集落社会において交叉従妹婚が行われていたかどうかについては研究者の間で議論が進行中ですが、勝坂期の忠生環状集落が二つの親族=四つの半族で成り立っていたとすると、男1に女4の円文彫刻は、その交叉従妹婚姻において男性の周りを女性4が巡る形を表現したものではないのかと思われてくるのです。これは仮説にすぎませんが、仮説を前提にして、以下ムラオサ(司祭者)が生前に如何なる祭祀を行ったかを推測してみましょう。

 
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〔4〕

 大環状集落の墓域である中心部空間に巨大石棒を屹立させ、ムラオサは同祖のムラビトを集めて、この憑代(ヨリシロ)にあの世の霊魂(祖霊)を迎え・送り、同族の生活の安定と幾久しい繁栄を祈るマツリを執り行ったでありましょう。勝坂期は温暖化=縄文海進によって川や森からの豊かな実りに恵まれていましたが、著しい人口の増加に見舞われ、将来的に資源確保が懸念される事態が生じて、テリトリーを幾世代にわたって如何に安定的に確保するかが「忍び寄る課題」になっていたと推測されます。交叉従妹婚という婚姻システムは、「女性の譲渡交換」と言われていますが、それは同時に同祖集団間で長期的な生活資源圏(財)を「譲渡交換」して永らく確保する堅固な生活防衛策でもあったのです。
 ムラオサはまたムラビトの死去に際しての「野辺送り」を執り行ったでありましょう。同時期の比較的整った環状集落の事例(例えば岩手県西田遺跡や多摩ニュータウン№107遺跡)からみて、中心空間は四つの集落毎に区分され、墓壙が掘られ、シカバネはそこに埋葬されたと見て間違いないでしょう。忠生遺跡中央185土坑からは鰹節型に成型された大珠(長さ110、幅33、厚さ21mm、重さ137.2g)が出土しています。最有力者の副葬品とみられます。
 魂の抜けた亡骸はセミの抜け殻や朽ちた木の幹のごときものですが、しかし魂はといえば、人が死ぬや否やその身体から抜け出て自由になり、さ迷い、地上を歩き、空中を飛ぶ。この目に見えない荒ぶる魂をあの世に導くのはどうしたらいいのか? アイヌの送りの儀式から、その祭祀を類推してみましょう。
 祭祀場はやはり広場中央で、その送り場には巨大石棒が屹立していたでありましょう。石棒には先祖の霊魂が込められていて、この世のヒトとあの世のヒトとの間の媒介となります。中空を漂う新仏の魂は、石棒を憑代(ヨリシロ)として方向が定められ、同祖の霊魂が住まうあの世へと導かれていきます(引導渡し)。あの世での生活に必要な道具類は、別途、不完全にする・破壊して送り、あの世によみがえらせてやる(物送り)。こうして、新仏は、あの世にたどり着き、先住の同祖の人びとともに、この世と全く同じ姿をして、同じ生活を送ることが可能になると考えられます。
 アイヌ学の金田一京介は、こう洞察しています。
 「死(rai)は、アイヌの人々に取ってこれまで育てられていたこの世から手を放して、肉体をば、この世にとどめながら、目に見えない霊となって、親たちの行っている神の国へ仲間入りする変化に外ならない」注10


 
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〔5〕

 ところで、ここで新たな疑問が浮かび上がってきます。ムラオサの死去後に、新後継ムラオサによってとり行われた巨大石棒の、あの世への送りは、何のために行われたのでしょうか?
 この時の一連の送りによって、あの世に送られたのは、旧ムラオサと巨大石棒の霊魂でした。旧ムラオサはあの世に蘇って、この世において行っていたと全く同じく、巨大石棒を屹立させることによって、この世への送りをやることを期待されたに違いありません。この世からあの世へ送る、またあの世からもこの世へ送るという双方向の送りが行われることになります。
 あの世からこの世へヒトの霊魂を送ったらどうなるのか? この世で女性が身ごもり、やがて出産するということになりましょう。
 昭和の初めに北海道二風谷のアイヌ集落に医師として住みつき、『アイヌの信仰とその儀式』を研究したM.G.マンローは、重要な発見をしています。
 「大抵の成人した人々は、世代が次々に交代して行くのは男女の交わりによって起きるのではなく、神の適切な助けを受けてあの世から魂が再び戻ってくることによるのだと信じています」。注11
 先に見たように、大型石棒には男1に女4の婚姻システムがしかと刻まれていて、観念世界の信念と現実世界の行為とが「入れ子」の形で重層的に象徴されています。これは、われら庶民の「子は天からの授かりもの」というタテマエと愛の行為との間の「入れ子」の認識構造と酷似しているのではないでしょうか。
 この世からあの世へ送る、またあの世からもこの世へ送るという双方向の送りが行われると、不滅の魂が、この世からあの世へ、あの世からこの世へと循環し、メビウスの環をたどるごとく無限、永遠の往復循環となります。こうしてヒトは死ねばあの世に行って生き、またあの世からこの世に戻ってきて生き、永遠に生き続けることを保証されるわけであります。
 これは、「日本人のあの世観」の根幹をなしている哲理に他なりません。注12
 
 注1 忠生遺跡については以下の報告書がある。
・忠生遺跡群 発掘調査概要報告書 2003.3 忠生遺跡調査会
・忠生遺跡 A地区(Ⅰ)(Ⅱ)(Ⅲ)(Ⅳ) 発掘調査概要報告書―A1地点 旧石器・縄文時代遺構編― 2007.3、2010.3、2011.3、 忠生遺跡調査会 
注2 久保寺逸彦「アイヌの死及び葬制」(アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』1970年 第一法規出版社所収)からの重引。以下の「アイヌの死及び葬制」については同論文に大きく依存している。また、大島直行「縄文時代火災住居の意味」(『考古学ジャーナル』447号、1999)参照。
注3 山田孝子『アイヌの世界観』(講談社、1994.8)による。
注4 「副葬品を何故破壊するか。アイヌの信ずるところでは、死者の霊は、死後肉体から遊離して、先祖(シンリッ)の住む「地下の国」(ボックナ・モシリ)へ行って、再び元の人間の姿となって再生する。死者の生前使用したもの――たとえば、眼鏡は、破壊されることによって、その眼鏡の霊は、形体から遊離することができ、副葬されて他界に行き、元の眼鏡に再生して、死者に使われるということである。これが、アイヌの宗教の根本観念なのである。(久保寺逸彦「アイヌの死及び葬制」同上p.521)
注5 宮本常一『民間歴』講談社、1985.12
注6 川口正幸「東京都町田市忠生遺跡A地区出土の大形石棒」(谷口康浩編『縄文の石神―大形石棒にみる祭儀行為』六一書房、2012.5  p.158)
注7 厚木市温名沖原遺跡J-9号住居址からは大形彫刻石棒の上半分だけが発掘された。「頭部断面は方形を呈し、各面には敲打による刻文が施されている。正面に玉抱紋風の刻紋が見られる以外は各面に円形文が配置されており、左側面と裏面の円形文は連鎖している。上端の角には被熱によるひび割れが見られる。石材は閃緑岩、重量は5550gを測る」(神奈川県厚木市恩名沖原遺跡発掘調査報告書 恩名沖原遺跡発掘調査団 2002.2)。なお、縄文後晩期の、四つの円文彫刻が記された石棒は、出所不明ながら以下の文献にも紹介されている(春成秀爾『儀礼と習俗の考古学』塙書房、2007.1 p.161)。縄文の石棒全般については、長田友也「石棒の型式的検討」(『縄文時代』24、2013.5所収)が型式的分類をしていて、Ⅱ類(彫刻石棒)は、縄文中期中葉を中心に、中部高地・関東、北陸(岐阜県北部を含む)、東北に分布して発掘されていることを明らかにしている。
注8 環状集落については、谷口康浩『縄文時代の社会複雑化と祭祀儀礼』同成社、2017 「第4章 環状集落と出自集団」に詳しい。忠生遺跡については安孫子昭二『東京の縄文学―地形と遺跡をめぐって』之潮(コレジオ)、2015.11が言及している。
注9 クロード・レヴィ=ストロース、福井和美訳『親族の基本構造』青弓社、2000.12、第11章規範的体系。ただし、このカリエラ婚は精密・複雑で、簡単に理解が追い付かない問題がある。そこで、それをやさしく説いた以下のサイトを参照されたい。http://bbs.jinruisi.net/blog/2010/08/866.html カリエラ型体系(4セクション限定交換体系)
注10 久保寺逸彦「アイヌの死及び葬制」(アイヌ文化保存対策協議会編『アイヌ民族誌』1970年 第一法規出版社所収)からの重引。
注11 M.G.マンロー著、B.Z.セリグマン編、小松哲郎訳『アイヌの信仰とその儀式』国書刊行会、2002.9、p.27 また、p204には「マンローの説によれば、アイヌの信条では性交が妊娠の直接の原因ではなく、死者の魂がよみがえることによって子供は生まれてくるとされている」(B.Z.セリグマン)とある。
注12 梅原猛は、下図を掲げて、「日本人の原『あの世』観―アイヌと沖縄」について以下のように考察している。
「あの世にいった魂は、永久にあの世に滞在しているわけではありません。しばらくして、魂は必ずこの世にもどってきます。たとえば、男女が結婚して子供ができた場合、あの世における先祖たちは相談して、だれをかえすべきかを考えます。そして、その結果、だれかがかえるよう決められると、その魂は母の胎内に入って、生まれてくるというのです。こういう考え方によれば、子孫は、すべて先祖の魂の再生にすぎないということになります。……魂をあの世へ丁重に送るのは、ふたたび魂をこの世へ送りかえさんがためです。魂がこの世に無事かえってくりためには、まずあの世へそれを無事に送らねばならないのです。」(『梅原猛著作集17 人類哲学の創造』小学館、2001.12 pp333-34)

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