縄文巨大石棒の謎(第2回)

中村 公省
(東京都町田市在住)

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電子礫・蒼蒼
第81号 2018.04.29
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室内石棒+埋甕の祈り(上)

はじめに

 
 忠生遺跡A1地区では、石棒が遺構内から37点、遺構外から45点、計82点の欠損品が出土しています。第1回目で見た巨大彫刻石棒につぐ逸品は、全長47㎝の無頭石棒です。この石棒は、竪穴住居内出入り口の埋甕の隣に突っ立っていました。時代は巨大彫刻石棒がこの世からあの世に送られてから200~300年を経た縄文中期後葉の加曾利E3式期という時代(今から約4500年前より少し前)に当ります。無頭石棒は無傷の完品です。この世からあの世への送り儀式の信念に従うなら【注1】、これは、この世からあの世に送られたものではあり得ません。あの世に送られたものでなければ、この世の内で、循環―完結するイノチの祭祀が執り行われたものと見られます。埋甕の中に何が入っていたかが、この祭祀を究める有力な手がかりです。
 なお、「室内石棒+埋甕の祈り」は考証・執筆に手間取り、長たらしくなってしいましたので、掲載に際しては、(上)(中)(下)3分割にします。読み苦しいのをお許しください。

 
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〔1〕119号住居址の石棒と埋甕

 忠生遺跡A1地区119号住居址内部の東南部出入り口には無頭石棒が立っていました。そして、石棒の隣には埋甕がセットされていました。【図1、図2参照】
 無頭石棒は完品で、大きさは全長47㎝、直径17㎝、重量18.9g。石棒は50㎝以上が大形と見なされていますが、これは決して小さなシロモノではありません。全国石棒大きさ較べで、忠生遺跡A1地区67号住居址出土の巨大石棒は№3ですが、無頭石棒の方は60位ぐらいには入ります(くにたち郷土文化館「石棒展」の中村耕作によるランキンググラフ、2017)。
 この無頭石棒を、発掘調査報告書は以下のように観察しています。カラー写真とともに、とくとご覧ください。
 「加工は全体としてよく研磨されているが、柱状礫を素材としてやや歪みに稜線を残す。また、両端部は粗い叩打整形に留まり素材面のへこみを残している。なお、器材の所々に凹みをもつ他、砥石としての利用が見られ、浅く窪んだ縦方向の研ぎ面が数カ所見受けられる。」
  無頭石棒の隣では埋甕が口を開けています。埋甕には正位のものと底を上にした逆位のものとが知られていますが、ここでは室内に正位でセッティングされていることを確認しておきましょう(深鉢内径21㎝、深さ15㎝)。
 土器文様は【図3】のごとくで、調査報告書は「中期後葉E3式期」と判定しています。この土器文様は千葉方面発祥の加曾利E式と、甲信地域発祥の曽利式とをミックスさせたものです。加曾利E式が支配していた中期後葉E1式期、E2式期の「文化」に甲信地域の曽利式「文化」が入り込んで、両者が折衷された、いわゆる「折衷土器」なのです。【注2】
 「文化」ということになれば、木下忠『埋甕――古代の出産習俗』の的確な考証を踏まえておかなくてはなりません。
 「埋甕の習俗が連続して行われたのは、勝坂式土器と加曾利式土器が使用された圏内の関東地方西部から中部高地にかけての地域で、石棒とか土偶などにも共通した信仰をもつ強力な部族のエリアが推定される。埋甕の終末は、内陸部に栄えた大集落が急激に凋落する時期と一致する。藤森栄一氏は気候の大激変などにその原因を求めている」(木下忠『埋甕――古代の出産習俗』p.41、1979.4、雄山閣)
 第1回で見た巨大石棒は中期中葉の勝坂期(約5000年前)でした。炭素14測定に基づき中期後葉の終末期(加曽利E4式期)は約4500年前と判定されています。ここから、後葉の加曾利E3式期(4700~4500年前)の埋甕及び無頭石棒は、巨大石棒(勝坂4式期)から300年程度を経ていると見なせます(注2の「縄文中期の土器形式と編年」を参照のこと)。
 しかし、中央の墓壙を南北に取り囲んだ忠生遺跡A1地区の大環状集落は、外観はそのまま維持されています。生活様式は基本的に変化なかったと見なせるでしょう。
 ただし、この間に気候が激変していることを看過できません。中期中葉・勝坂期は、縄文海進によって山の幸、海の幸に恵まれた豊かな生活を保証されていましたが、この中期後葉・加曾利E3式期になると次第に寒冷化し、次第に海が引いて行って(縄文海退)、自然環境が悪化し、生存条件が厳しくなっていきます(寒冷化のピークは4400~4100年前=イベントⅣ・3700~3500年前=イベントⅧ)。人々の生活は生活物資が次第に枯渇する中で、祈りが支配し、最も弱い存在である幼児と、妊婦は生存を脅かされる破目になったことを踏まえておかなければなりません。ちなみに、この忠生遺跡A1地区の大環状集落は、後葉4期には解体・放棄されています。大繁栄をとげていた、さしもの八ヶ岳山麓の中期縄文化も4000年前頃には大崩壊する運命にあります。言い換えれば、後葉3期は忠生遺跡A1地区大環状集落が最後の光芒を放った時機だったのです。
 さて、のっけから理屈っぽくなってしまいました。
 以上の状況証拠を前提にして、忠生の縄文の森に分け入って行きましょう。頼りとする磁石は、忠生大環状集落の縄文人は、4500~5000年後に同じ旧東京都南多摩郡忠生村木曽町で生き死にしている私と全く同じレベルのメンタリティをもって、森の中での生活を切り開き、人々と共に喜び、悲しみ、悩み、苦しみ、万世に渡るイノチの永続を祈願したに違いない、という想像力に拠るしかありません。
 埋甕の中には何が入っていたのか? 
 屹立する石棒によって何が祈られたのか?


図1-1 119号住居址の石棒と埋甕
左が119号住居址で、後に右の120号住居が119号住居に一部にかぶって建てられているので出入り口部が失われている。


図1-2 石棒と埋甕を拡大
石棒と埋甕の位置は東南部の出入り口近くと見られる。


図2 119号及び120号住居址平面図及び地表部分断面図
pは竪穴住居の柱、中央は石囲い炉、炉石には長楕円礫と半割の石皿を配す。また119号住居址の何れの位置からか土偶が出土している。断面図から、石棒は固定、直立しておらず、ひょいと持ち上げ、他の住居址内に持ち運んで、そこの穴ぼこに同じ様に立てられることがわかろう。
(出所)『忠生遺跡 A地区(Ⅰ)』忠生遺跡調査会 2007.3


図3 119号住居址の埋甕(左)〔右は同住居址覆土下出土の深鉢〕
この土器(左も右も)の文様は千葉方面発祥の加曾利E式と、甲信地域発祥の曽利式とをミックスさせている。中期後葉1期、2期の加曾利E式様式に甲信地域から渡来した曽利式様式が付加され、両者を折衷した「折衷土器」が、この中期後葉3期にもたらされたと見られる。報告書は「中期後葉3期」と判定している。言い換えれば、「加曾利E3式+曽利3式」の折衷土器である。


 
◇ ◇ ◇ ◇
 

〔2〕埋甕には何が入っていたか?

 埋甕とは何でしょうか? 
 埋甕については、比較的精密な研究が行われていて胞衣(えな)収納と幼児収納との二つの説が有力と見られます【注3】。木下忠『埋甕――古代の出産習俗』(雄山閣、1981)が実証性的で優れた分析を行っています。彼自身の好みは胞衣収納説に傾斜していますが、後者の幼児収納説にも大きな可能性を保留しています。しかし、私は、ここで、木下忠の好みに逆らって、あっさり胞衣収納を否定し、埋甕には幼子の遺骸が収納されていたと見なします。その論拠は単純明快です。

❖胞衣(えな)を埋甕に入れて埋納する習慣・風習は存在しなかった
 
忠生遺跡A1地区の埋甕を見てみましょう(表1参照)。

埋甕の数は、後葉1期0個、後葉2期18個、後葉3期37個、後葉4期0個です。
後葉2期においては住居数で埋甕有:埋甕無(or不見)の比が13対20(埋甕有率39%)となっています。
後葉3期においては住居数で埋甕有:埋甕無(or不見)の比が31対20(埋甕有率61%)となっています。


表1 忠生遺跡A1地区の中期後葉(加曾利E期)の住居と埋甕数
後葉1小計 後葉2小計 後葉3小計 〔細分不明〕小計 合計
時期別住居数 5 33 51 12 101
埋甕無or未見の住居数 5 20 20 10 55
(埋甕無or未見の住居数割合) 100% 61% 39% 83% 54%
埋甕有の住居数 0 13 31 2 46
(埋甕有の住居数割合) 0% 39% 61% 17% 46%
埋甕数 0 18 37 5 60
縄文中期後葉期の全101住居中で埋甕の有る住居が合計46軒、埋甕の無or未見の住居が合計55軒ある。
複数埋甕を持つ住居がある(後葉2期で2個3軒、3個1軒。後葉3期で2個6軒、細分不明で2個1軒、3個1軒)。
細分不明には、後葉1~2式期、後葉2~3式期、後葉1~3式期の他に「中葉3式期及び後葉1~2式期」を含む。
(出所)『忠生遺跡 A地区(Ⅰ)忠生遺跡調査会 2007.3』より作成

 胞衣(えな)とは、出産に際しての「後産」、胎盤や羊膜・卵膜・臍帯などの総称で、出産に必ず伴います。胞衣を埋甕に入れて埋納する習慣があったとすると、ほとんどすべての家屋に埋甕があってしかるべきです。ところが、後葉2期においては6割以上、後葉3期においては4割近くに埋甕が無いのです。さらに言うなら、平均1家庭で2人以上の子どもがあったはずで、2回以上の出産で一家に2個以上の埋甕があってしかるべきですが、1住居に2個以上の埋甕は後葉2期で2個3軒、3個1軒、後葉3期では2個6軒、細分不明で2個1軒、3個1軒に留まります。
 「埋甕が住居にとって必須な施設とはいい難い」ことは埋甕研究家で胞衣派の桐原健も認めているところです。
 「ほぼ単一時期の〔長野県〕駒ヶ根市山田遺跡を取り挙げると、加曾利E式期住居址7カ所中、埋甕を有していたものは3カ所にすぎなかったし、茅野市茅野和田東遺跡においては曽利Ⅱ式期10カ所中2、Ⅲ式期7カ所中2、Ⅳ式期4カ所中4に埋甕は見出されていて、曽利Ⅳ式期の茅野和田集落以外は4割以下の寡少な状態に留まっている。」(桐原健「埋甕」、加藤晋平・小林達雄・藤本強編『縄文文化の研究1 縄文人とその環境』所収p.253、1994.7、雄山閣)
 この事実は何を意味しているでしょうか? 
 胞衣(えな)を埋甕に入れて埋納する習慣・風習は無かったと判断するしかありません。
 ここから、埋甕幼児埋納説が一挙に浮上します。少なくとも、忠生遺跡A地区縄文中期後葉2期及び後葉3期においては、埋甕に胞衣は入っていなかった。忠生遺跡では、埋甕に死亡した幼児を入れて、竪穴住居の出入り口部に埋納したと考える他なしです。
 しかしながら、以上の推論は傍証であり、直接的物証ではありません。物証、即ち幼児の骨が納められた埋甕の発見が求められますが、日本の酸性土壌ではそれが叶わなかったのです。ところが、それが、ついに叶ったのです。決定的証拠が、モースの教え子が掘った陸平貝塚(おかだいらいせき)近くの、茨城県美浦村の縄文遺跡において発見されたのです。これはまだ、考古学者の多くも知らない最新ニュースです。
 
❖美浦村御茶園西遺跡で幼児の頭蓋骨破片が入った埋甕が出土した
 茨城県美浦村といえば、中央競馬会のトレーニングセンターの所在地、その昔は予科練の基地の所在地としても知れわたっていますが、その地の霞ヶ浦を望む丘陵の御茶園西遺跡(おさえんにしいせき)で、2014年ヒトの頭蓋骨の破片が入った埋甕が出土したのです。2018年3月に刊行された調査報告書(『茨城県稲敷郡美浦村御茶園西遺跡発掘調査報告書』)の中から注目すべき事実を確認しましょう。

埋甕は5号住居の竪穴住居南壁面に位置していた。⇒⇒要するに、出入り口であり絵にかいたような位置です。
埋甕は逆位ではなく正位で埋められていた。「口縁部から胴中央付近までほぼかけることのない状態で出土し、胴部下部から底部にかけて欠損している。」⇒⇒底を抜いていると見られます。ドイツ・フライブルク大学東洋研究所日本科教授であったネリー・ナウマンの見識が光り輝きます。「幼児の甕棺葬はこの世への再生願望を伝えている。甕が胎盤に見立てられ、底部が打ち抜かれているのは再生が容易になると考えられたためである。住居址の近くやその内側に埋めてある甕棺に、この考えがとくに明瞭に表現されている。したがって八ヶ岳山麓で住居の一角に埋めてある深鉢はよく人が踏んだ場所にあり、逆さのものも含めて幼児埋葬だと見なされることがある。しかし残念ながら内部に人骨が発見されていない。」(ネリー・ナウマン著、檜枝陽一郎訳『生の緒』p100、2005.3、言叢社)
埋甕内の土の塊から骨が検出され、鑑定の結果、ヒトの頭蓋骨の破片が含まれていることが確認された。写真40のa(図4を参照)は後頭部の一部、サイズ(前後径13mm、最大幅15mm)から、生後直後~3ヶ月と推測。また。四肢骨の一部も存在したことから、土器内には全身の骨が入っていた可能性があることも指摘された。⇒⇒これは、埋甕幼児埋納説を決定づける、日本で初めての発見だと思われます。かつて1966年、松戸市の縄文時代後期の貝塚(殿平賀貝塚)の竪穴住居から幼児骨を埋葬する「墓壙」が発見されたことがありましたが、幼児骨が「埋甕内」に納められていたという肝心要のところが確証されませんでした。しかし、御茶園西遺跡では、5号住居址の「覆土の堆積と遺物の出土状況」が精密に観察されており、骨は専門家の鑑定を経ているところから、幼児の埋甕葬の跡であることは確実です。報告書では「骨が現在まで土器内に残った要因の一つは第5号住居跡に多量の貝が堆積されていたためと考えられる」と言っています。
土器内面の黒色物(痕)の材質分析が行われていて、海産物(主に海産魚類)を含む主にC3植物・草食動物に由来する炭化物と推定されている。⇒⇒これは、おそらく埋甕として新品の甕ではなく、使い古した甕が使われたということでしょう。一般に埋甕に新品の甕が使われることはなく、ただ唯一知られているのが、女性の大股開き図を描いた唐渡宮の大埋甕です。
埋甕の様式は堀之内1式である。⇒⇒堀之内1式は縄文後期4240~3980年前(紀元前2290~2030年)頃に当ります(小林謙一「縄文時代の暦年代」による)。殿平貝塚竪穴住居内の幼児骨も、この時代のものらしく、関東東部沿海部ではこのころ、埋甕祭祀が行われていたように見受けられます。埋甕祭祀は、もともと八ヶ岳山麓を中心にする曽利式土器が盛行した地域の幼児埋葬儀式です。忠生遺跡で埋甕葬が消滅し、それから500年後に、霞ヶ浦に埋甕葬が立ち現われていることになります。これは、また新たな別の謎を孕んでいます。


図4 御茶園西遺跡第5号住居址出土の埋甕、埋甕の内面と埋甕内覆土出土骨
「骨は土がこびりついていて(写真39)骨そのものの抽出が難しく竹串を使って少しずつ土を除去し骨の形まで抽出できたのはわずかであった(写真40、41)。抽出した骨は谷畑美帆氏(明治大学日本先史文化研究所・黒曜石研究センター)と坂上和弘氏(国立科学博物館)に見ていただき、ヒトの頭蓋骨の破片が含まれていることが確認された。写真40のaは後頭骨の一部(Parsilaris)で、サイズ(前後径13mm、最大幅15mm)から生後直後~3ヶ月と推定される。また。四肢骨の一部も存在したことから、土器内には全身の骨が入っていた可能性があることも指摘された。」
(出所)『茨城県稲敷郡美浦村御茶園西遺跡発掘調査報告書』p.35、p.37

幼児は何故竪穴住居の出入り口に葬られねばならなかったか?
   真理は単純です。以上の証拠から、忠生遺跡では、埋甕に死亡した幼児を入れて、竪穴住居の出入り口部に埋納したことに間違いないでしょう。それでは、何故、中央広場にある墓壙ではなく、個々の竪穴住居の出入り口に幼児が葬られねばならなかったのでしょうか? 
 私が考えるところでは、死去した成人は中央墓壙に、夭折した子供は家の出入り口にという具合に葬儀方法が峻別されたのは、タマシイの送りどころが異なっていたからではないかと思われます。仮説を提示しましょう。
 第1回論考で推定したように、成人のムラビトのタマシイは、大環状集落中央で大石棒を憑代(よりしろ)として、この世からムラビトの祖霊の住まうあの世に送られます。こうしてニイタマはあの世でご先祖様とともに、この世であったと同じような生活をすることが叶うのです。ところが、幼児は、この世に生まれ出ずることが叶わなかったか、生まれ出たとしても未熟にしてほんのわずかの間しか生を享受できなかったわけであって、あの世に送るわけにはいかない。何故なら、仮にあの世に送ったなら、あの世でもまた同様な破目に遭遇し、いつまでも生を享受することが叶わないという永遠の悪循環に陥るからです。死産児は、この世のうちに止めおき、お母さんの体に再び戻って、生まれ直してもらうしかイノチを再生させる方途がないのです。
 死産児の葬法が、成人の葬法と異なるのは当然のことです。幼児はムラビトたりえずして、逝ってしまったのであって、イエの子にすぎません。イエの子はイエの者がイエの内に葬らなければならない道理です。
 竪穴住居の出入り口に幼児が葬られねばならなかった理由は、お母さんの体に再び戻って生まれ直してもらおうという切ない願いに直接かかわっているでしょう。住居の出入り口は、お母さんが日々、四六時またぐところであり、幼児のタマシイがお母さんの胎内に立ちかえるチャンスに恵まれているという通説を紹介しておきます。「死産児やうまれてすぐ亡くなった赤ん坊の魂が、できるだけ早くこの世に戻ってきてもらうためで、家の玄関下は女性がひんぱんにまたぐ場所だからである」(渡辺誠『よみがえる縄文の女神』2013.9、学研パブリッシング、p176) 
つい最近まで行われていた住居内に幼児を埋葬する民俗的事例
    ダメ押しとして、木下忠の挙げている幼児収納の民俗事例とアイヌの民俗的証拠とを、「埋甕原像」として見ておくことにします。(長い引用ですので、お急ぎの方はお先にどうぞ)要は、ヤマトにおいてもエゾにおいても、成人の葬儀とは別に、埋葬場所と葬法が全く異なった乳幼児葬法が、縄文時代から、つい最近まで延々と、行われ続けてきたという事実を確認するにすぎません。
 「流産児・死産児や乳幼児を床下などのような住居の内に埋葬する風習は、関東・東北に限らず、ほぼ全国的に行われていたものである。幼児の場合、その年齢については、まちまちであるが、七歳というものがもっとも高い年齢である。青森県地方では、「七つ以下は神のうち」といって、七歳以下の子供が死ぬと家の床下に埋めるとか、屋敷の隅に葬るところが多かったという。福島県東湯野でも七歳以下の幼児は一人前の人間としての待遇がされず、縁の下に埋められた。奈良県吉野郡十津川村那知合でも七歳以下の子供が死んだ場合は床の下に埋めた。茨城県高萩市高岡では、二歳までの子供が死ぬと自家の縁の下へ埋めた。
 生後百日前を限る所も多い。福島県茂庭では、百日前の子供が死ぬとニワの隅に埋める。郡山市鍋山では、百日以内の嬰児が死亡したとき、その日のうちにかまばの隅の木置場に穴を掘って埋める。いわき市草野では、百日以内に死んだ子は墓所にやらず皆家の縁の下大黒柱の下に埋めた。静岡県賀茂郡松崎町岩地では、百日以内に死んだ子供は納戸の床下に埋めた。愛知県新城市大海では、生まれてから百日ぐらいに死んだものは水子(泡子)いって家の床下に埋め、別に弔いなどしない。」(木下忠『埋甕――古代の出産習俗』p.130、それぞれの事例の出所は省略、1979.4、雄山閣)
死産児・乳幼児の住居内埋葬の観念
   「このような流産児・死産児、乳幼児などの住居内埋葬は、どのような観念にもとづいておこなわれたであろうか。青森県地方では、「七つ以下は神のうち」といって、七歳以下の子供が死ぬと一般には墓に葬らず家の床下などに埋めた。福島市東湯野でも七歳以下の幼児は一人前の人間としての待遇がなされず、死亡しても葬式は出してもらえず通常は縁の下に埋められた。山梨県南都留郡足和田町西の湖では、生まれたばかりの赤子は、台所のふみつきの下のものといっしょに埋めており、これらの赤ん坊は無縁さまにもならないから線香一本あげることもなかった。愛知県新城市大海では、生まれてから百日ぐらいは赤子の体に魂が入ったり離れたりしていると考え、この間に死んだ者は、水子(泡子)といって、生まれかわってこいよと家の床下に埋め、別に弔いなどはしないしきたりであった。」(同上、p.131)
アイヌの風習
   住居の場としての家屋には一部屋しかありませんが、必要に応じて茣蓙を吊して部屋を仕切って用います。以前までは、差し掛けた割仕掛けた下屋のような<シュム>が建てられ、ここには入口が直接風雨にさらされないようにした土間で、そこには穀物を搗く木製の杵や臼がしまってありました。昔は、ここに夭折した乳飲み子を埋葬し、その子を失った母親の流す涙と乳房から絞り出した母乳をその上に落していました。こうすることで、亡くなった乳飲み子の魂はそのまま<カムイ フチ>に加護され、やがて母親の胎内に再びその子供の魂が宿ると信じられていたからです。(N.G.マンロー著『アイヌの信仰とその儀式』p.91、2002.9、国書刊行会)
 
 注1  この世からあの世への送り儀式の信念に関しては、アイヌの世界における、この世からあの世への送り儀式を発見した、河野広道「貝塚人骨の謎とアイヌのイオマンテ」(『人類学雑誌』50(4)、1935)を参照のこと。河野広道によれば、「イは『物』に相当し、オマンテは『送り』」で、イオマンテは『物送り』の義である。だからイオマンテを『熊祭』と訳するのは誤りであって、ましてバッチェラー氏の辞典にあるが如き『犠牲にする』とか『屠殺して人に送る』等の義は全くないのである。」送りの儀式がイオマンテなのである。
 「アイヌの考え方に従えば、総ての物が生きて居るのであって、それぞれ人と同様な精神生活を営んで居り、霊がその物体を離れるのが死といふ現象であり、器具などなら破損して用をなさなくなった時がそのものの死を意味する。この様な考へ方から、品物が毀れても物送りの場に送り、動物を殺しても、植物を採っても不要も部分は総て物送りの場に送るのである。そうすることによって、殺した動物や毀れた器具の霊を天国に送り、祟りをまぬがれると同時に、その霊達が再びアイヌを訪れる時にはよりよき幸せを持ち来る様に祈るのである。アイヌにとって嫌いなものに対しては来ぬことを祈る。兎に角、往時は上述の様な考え方から、霊の上天した人の屍も、毀れた物も、同様に取り扱った時代がある。」
 ここから、貝塚は、物送り場の跡であって、物の霊を天国に送った「骸」の置き場である、という河野広道の認識が導き出されている。
注2  忠生遺跡A1地区の中期後葉期の住居址時期(土器組成)を報告書の4期分割よりさらに細分化して新地平編年によって、住居址時期(土器組成)と出土土偶数との相関関係を調べた優れた研究がある(安孫子昭二『縄文中期集落の研究』の第5章考察・第4節忠生A1遺跡の土偶と土器組成、2011.5、アム・プロモーション)。
 忠生遺跡A1地区の安孫子の時期区分は、新地平編年の10期(加曽利E1式期)、11期(E2式期)、12期(E3式期)に分け、土偶の出土事例が多い12期を12a、12b、12b-cに細分化している。そして、住居総軒数82と土偶77の比を以下のように算出している。
 10期が7%対5%、11期が26%対10%、12a期が26%対51%、12b期が34%対34%、12b~12c期が7%対0%。
 ここから、土偶祭祀が活発に行われたのは12a期になってからで、12b期まで持続していると結論付けている。
 「土偶祭祀が盛行した12b~12c期には曽利式の土器組成率がもっとも高い。このことから、双方の有機的な関わりが看取されよう。煎じ詰めると、背面人体文土偶は曽利式集団が持ち込んだ祭祀にかかわる御神体というような性格ではなかったろうか。このように考えれば、連弧文土器の集団が背面人体文土偶を導入したというよりも、同じ集落で共同生活を送っていた曽利式集団に付随した可能性が高い。」(同上pp.292-293)
 背面人体文土偶については、次回で考察する予定であるが、とりあえず、ここで注目しておくべきは、忠生遺跡A1地区の土偶祭祀が12b~12c期(報告書の時期区分では中期後葉3期)に集中していて、12b~12c期(後葉3期)の曽利式土器と土偶とが密接に関連していることである。
 以下の文中で私は、新地平編年12b~12c期に相当する後葉3期には曽利式土器と土偶とが密接に関連するだけでなく、曽利式土器と埋甕が密接に関連していることを付け加えている。即ち、忠生遺跡A1地区の12b~12c期(後葉3期)には、曽利式土器と土偶祭祀と埋甕祭祀の三つが盛行していた、と。さらに論証不充分ながら、状況証拠を基に推測するなら、石棒祭祀も付加し得る。仮説として言うのだが、忠生遺跡A1地区の12b~12c期(後葉3期)には、曽利式土器、土偶祭祀、埋甕祭祀、石棒祭祀の四つが盛行していたと思われる。さらにスタンプ形石器、凹石(クルミ割り用の窪み穴とする久保田正寿説もある)、大珠(威信財で第二の道具か?)、大珠など種々の「第二の道具」類についても検証してしかるべきである。
 「曽利式集団が持ち込んだ祭祀にかかわる御神体」は、曽利式土器、土偶祭祀、埋甕祭祀、石棒祭祀など広範囲及んでいる。
 本論は、このように、安孫子昭二の研究成果に教導されるところが大きい。また、同氏からは資料の貸与から考古学事象の解説に至るまで種々専門的なご教導をうけ、本文草稿に数度にわたる添削の労まで賜った。この場を借りて厚く御礼申し上げる次第である。

縄文中期の土器形式と編年
土器形式 新地平編年 今から×年前 紀元前×年
勝坂期 勝坂1式(貉沢期) 新地平5a~c期 5380~5320年前頃 3430-3370年頃
勝坂1式(新道式) 新地平6a~b期 5320~5280年前頃 3370-3330年頃
勝坂2式(藤内1式) 新地平7a~b期 5280~5220年前頃 3330-3270年頃
勝坂2式(藤内2式) 新地平8a~b期 5220~5080年前頃 3270-3130年頃
勝坂3式(井戸尻1式) 新地平9a期 5080~5000年前頃 3130-3050年頃
勝坂3式(井戸尻3式・終末) 新地平9b~c期 5000~4900年前頃 3050-2950年頃
加曽利E期 加曽利E1式(曽利Ⅰ~Ⅱ古) 新地平10a~c期 4900~4810年前頃 2950-2860年頃
加曽利E2式古(曽利Ⅱ式新~Ⅲ式) 新地平11a~b期 4810~4750年前頃 2860-2800年頃
加曽利E2式新(曽利Ⅲ式新・連弧文系最盛期) 新地平11c期 4750~4710年前頃 2800-2760年頃
加曽利E3式(曽利Ⅳ式) 新地平12a~c期 4710~4520年前頃 2760-2570年頃
加曽利E4式(曽利Ⅴ式) 新地平13a~b期 4520~4420年前頃 2570-2470年頃
(出所)小林謙一「縄文時代の暦年代」(小杉康、谷口康浩、西田泰民、水ノ江和同、矢野健一編『縄文時代の考古学2 歴史のものさし――縄文時代研究の編年体系』P.264、2008.2、同成社)
注3  桐原健「埋甕」によると、埋甕については、①竪穴住居の建築儀礼にかかわる供犠埋納の施設説(水野正好)、②胞衣収納説(木下忠、桐原健)、③幼児葬説(渡辺誠)があるそうだ。この渡辺誠、木下忠、桐原健、水野正好の「4人に共通しているところは、出入口の設けられている施設であることを強調していることで、渡辺は夭折した幼児の精霊を改めて胎内に宿そうとする妊娠呪術から胎児・幼児の甕棺は出入りの繁しい竪穴内部位に埋設され跨がれたとし、木下は踏めば踏むほど丈夫になるとする感染呪術に基づき、水野も「出入口部という必ず踏まねばならならぬ位置に埋甕されるという点も儀礼的には住居の踏みこらしに通ずる性格を持つ」として住居の出入り口部埋設を説明している。」(桐原健「埋甕」、加藤晋平・小林達雄・藤本強編『縄文文化の研究1 縄文人とその環境』所収p.256、1994.7、雄山閣)
 埋甕については、木下忠『埋甕――古代の出産習俗』の他に中村禎理『胞衣の命』(1999.11、海鳴社)が力作である。ただし、木下忠は胞衣説に傾斜していて、死産児・乳幼児の住居内埋葬についての民俗事例をふんだん例証した挙句、次のように言い抜けている。
 「ここで埋甕に関連して推測をたくましくするならば、縄文種族文化においては一般に死産児や乳幼児の死体は住居の戸口に埋めなかったのではないか。これまでの発掘調査の事例が示すように、これらの死体は屋外に埋葬されたものと思われる。」(同上p.135)
 何故、「推測をたくましく」しなければならないのか? その当時、「これまでの発掘調査の事例」がなかったかどうか? その後、少なくとも忠生遺跡A1地区では、61個もの屋内埋甕が発掘されているのである。
 中村禎理説に対する私の読後感は以下の如し。
 胞衣埋葬は中国から渡来したもので、医師=呪術師から支配・貴族層に普及した呪法だという印象を受ける。胞衣埋葬は歴史的には割合と新しく、支配層からさらに庶民層に普及して、つい最近まで存続したのだと推察される。縄文時代から弥生をへて延々と存続していたなどという証拠は全くない。
 また、諏訪考古学の泰斗・藤森栄一の「縄文人のお産」(『藤森栄一全集』第9巻所収、1979.3)は出色のエッセイではあるが、胞衣説を頭から信奉している。曰く「加曾利E期に入ると、……竪穴南隅、出入り口のきわに埋め甕が出てくる。これが、胎盤葬用という説は、いまや既に疑う余地はなく、とすれば、一応のうぶや、特殊な産室が発生したらしいこともうかがえてくる。今も、諏訪地方では、胎盤は玄関または、沓ぬぎの下または脇に埋める。踏まれれば、踏みつけられるほど、その児は丈夫に育ち、後の児の胎盤ははやく生きかえると信じられているのである。」
 女性の民俗学者の安井真奈美は、天理市を中心に奈良県でつい最近まで行われていた胞衣を埋める習俗を検証している。安井真奈美『怪異と身体の民俗学――異界から出産と子育てを問い直す』(2014.12、せりか)
 一方、埋甕に乳幼児埋葬説を明確に打ち出している考古学者には渡辺誠や岡本道夫がいる。岡本道夫は以下のように述べているが、この主張の論拠詳細は明示されていない。
 「生まれてすぐ亡くなった子や五、六歳までの幼児は、基本的には大人の墓地には埋葬されませんでした。彼ら用の墓は、穴を掘って深い鉢型の土器を埋め、そのなかに埋葬したもので、埋設土器とか小児用土器棺などと呼ばれ、全国的に中期から一般化しました。これらは、前・中期には竪穴建物群の周辺や隣接した「盛土遺構」などから発見されています。また、中部山岳や関東では、竪穴住居内に埋められている場合も多く見られます。これは、母の使った土器を母胎または母と見立て、そのなかに納めて日常生活の身辺におくことで、亡くなった子が母親の胎内に再生することを願ったのでしょう。」(岡本道夫『縄文人からの伝言』2014.7、集英社新書)
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